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研究ノート
『原田先生記念帖』雑感 −学芸員・森鴎外−

堀切正人

 静岡県立美術館は、このほど希少本『原田先生記念帖』を収蔵した。この書は、明治中期に活躍した洋画家・原田直次郎の没後10年を記念して開かれた展覧会(注1)のカタログである。原田は《騎龍観音》で一世を風靡したが、明治32年に36歳の若さで世を去った。文豪・森鴎外とはドイツ留学中に知り合い、終生固い友情で結ばれていた。鴎外の小説「うたかたの記」の主人公のモデルにもなっている。原田はその技量や活躍から考えて、間違いなく明治中期を代表する画家であるはずだが、これまで、なぜか本格的な回顧展は開催されておらず、まとまった画集もない。それゆえこの記念帖が、今日にいたるまで最重要史料である。そして、これを実質的に作り上げたのが、森鴎外であった。

 展覧会を開催するに至った経緯については、鴎外自身が述べている(注2)。それによると、明治42年7月11日に原田直次郎の甥・原田熊雄が来て、遺作を集めて展覧し、画譜も作りたいと語ったことに端を発する。原田熊雄は後に、「最後の元老」こと西園寺公望の秘書を務め、大正、昭和の政治を裏側から支えた人物である。一方、鴎外は政治的には山県有朋の配下にあった。山県は枢密院、貴族院、警察、陸軍を掌握し絶大な権力を振るった元老である。鴎外は陸軍軍医総監、陸軍省医務局長という軍医の最高位まで昇りつめたが(明治40年)、それは山県の引きがあったためとされている。また鴎外も山県のブレーンとして働いたとみられる。その山県が総理に据えた桂太郎と、政友会の西園寺とは、明治末期に熾烈な政権抗争を繰り広げ、所謂、桂園時代を作った。

 それゆえ鴎外が政敵側に位置する者の願いを受けて、その実現に向けて尽力したことは、不思議なことのように思われる。だが、あえて政治的な枠組みを越えて展覧会を開催するというところに、鴎外の意思があったのではないだろうか(注3)

 この時代は、日比谷暴動、平民運動、社会主義運動、憲政擁護運動、大正政変、大正デモクラシーなど民衆運動が盛り上がる一方で、陸海軍の軍備拡張や勢力拡大、鉄道国有化、大逆事件、工場法の制定、南北朝正閏問題、大陸への進出など、個人の権利や自由と、国家の枠組みとの齟齬が顕在化していくときであった。鴎外自身も、作家と役人との二つの立場に挟まれていた時期であり、「魔睡」が宮内庁で問題となり、桂首相に呼び出されて、新聞への署名執筆を禁じられたり(明治42年6月)、また「ヰタ・セクスアリス」は発禁処分を受け、陸軍次官から戒告を受けている(同年7月)。

 大逆事件では、弾圧する側と弁護する側の双方に、鴎外が動いた模様である。そのような中でも鴎外は旺盛な執筆活動を続け、しかも様々な文化活動の基盤づくりに活躍している。例えば、与謝野鉄幹、石川啄木ら新旧の歌人を集めた観潮楼歌会を開設(明治40年3月)、小説家に対する政府の処置について芸術院設立を極秘に文部次官に建議(明治41年11月)、木下杢太郎、北原白秋ら若手作家を中心とした雑誌『スバル』を創刊(明治42年1月)、自由劇場第1回試演のためにイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」を翻訳(明治42年11月)、そして新旧両派が参加した文部省美術展覧会には、第1回から美術審査委員として参画している(明治40年9月)。

 つまり鴎外は、個人の芸術表現と国家の統制との双方の側に立って、「作家」と「作家の表現の場」との両者の成立を模索していたのである。とするならば、原田直次郎の展覧会開催も、その一つのあらわれと見ることは可能ではないだろうか。

 そもそも当時としては回顧展自体が珍しかったはずである。作家の没後まもなく行う追悼展は浅井忠などの例があるが(明治41年、第6回太平洋画会にて)、没後10年も経ってから、しかも画会の一部ではなく個展として行う例は、皆無に近かったと思われる。個展によって原田直次郎という一個の作家像を確立しつつ、しかもそれが新旧両派によってなされたように見せることによって美術の新しい枠組みを提示する。このような思惑が鴎外にあったとみるのはうがちすぎだろうか(注4)

 展覧会開催といっしょに、原田熊雄が鴎外に相談したことがもう一つある。それは原田直次郎の大作《騎龍観音》を、護国寺から開館したばかりの表慶館へ移したいということであった。表慶館は、洋画家たちの積年の美術館建設運動が結実するかに思われた建物であった。結局、この移管はかなわなかったようであるが(「鴎外日記」明治42年7月16日、11月9日)、ここにも、美術の新しい場―作品を発表し収蔵する場としての美術館―への希求をうかがうことができる。

 鴎外は晩年、文展の審査主任のほか、帝国美術院院長、帝室博物館総長兼図書頭などを務めた。博物館の展示替えを行って、減少傾向にあった入館者数を飛躍的に増加させ、収蔵目録を整理し、学報を発行し、正倉院宝物を調査して一般研究者の観覧へ門戸を開くなど、博物館行政の改革に多大な功績を残した(注5)。こうした活動は、言うなれば今日の美術館、博物館の学芸員の仕事であるので、鴎外は「学芸員の元祖」と言ってもいい。

 その鴎外が作った原田直次郎の回顧展と記念帖は、今なお、いや今だからこそ、展覧会を開催し、図録を編むことの意味を、我々に問うているように思われる。政治を含めた社会の動きの中に身を置き、同時に芸術に携わる者として、何をせねばならないのか、それを問いつづけた活動であったように思われる。思えば原田直次郎もまた、ドイツで学んだ自己の技量を日本の社会の中でいかに活かしていくかを、きわめて自覚的に試みた画家であった。彼ら2人には、美術界という狭い世界を越え、現実社会の中で泥にまみれる姿勢と、それを包容できる器の大きさがあった。

 今日、美術館は冬の時代である。人々は足を運ばなくなり、若い作家も既成の美術館や画廊を離れて、独自の活動の場を作りつつある。そうした時代に、我々が何をすべきか、そしていかなる展覧会を作るか、あらためて鴎外に学ぶところは大きい。


『原田先生記念帖』
原田直次郎氏記念会編 
著者兼発行者:小芝英明治43年1月25日発行 
限定120部


(注1) 明治42年11月28日、東京美術学校にて開催。また同日、精養軒にて遺族、関係者を招いた記念会を行う。

(注2) 「原田の記念会」「再び原田の記念会に就いて」『国民新聞』明治42年11月27日、29日。また鴎外日記にも明治42年7月から44年3月まで、この件についての記述が散見される。

(注3)明治41年7月から明治42年12月までの第2次桂内閣においては、桂園の微妙な提携がなされた時期で、鴎外も西園寺主宰の歌会・雨声会に出席している。なお原田直次郎のドイツ留学の際(明治17年)、当時、陸軍参謀本部員で大佐だった桂太郎も同じ渡航船に乗っていたという奇縁もあった。

(注4)黒田を巻き込んだことについて新関公子氏は、東京美術学校で開催するため、そして原田がその教授であったかのように思わせるためであったと推測している。「森鴎外と原田直次郎」『へるめす』38号 岩波書店 1992年7月 p.121

(注5)須田喜代次「山崎國紀編 世界思想社 1994年 ほか参照。


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