今春、当館の15周年を記念して開催された「ロダンと日本」展は、「ロダンに対する日本の影響(ロダンのジャポニスム)」および「日本に対するロダンの影響(日本のロダニズム)」を二大テーマとし、検証した展覧会である。「ロダンのジャポニスム」のうち、ロダンのコレクションである浮世絵やゴッホの《タンギー爺さん》とともに話題を集めたのは、ロダンが採用した唯一の日本人モデルである花子(本名・太田ひさ、1868〜1945)のセクションだった。博覧会の踊り子として1902年に渡欧した花子は、1921年に帰国するまで欧米で女優として名を馳せた。ロダンが花子に出会ったのは1906年、すでに作家は66歳だった。
花子の彫刻・デッサン・写真のジャンルにまたがるシリーズが本展で一堂に会したのは実に20年ぶり、1979年にパリのロダン美術館で開催された「ロダンと極東」展以来である。中でもロダンが一人のモデルを対象に制作した最多の肖像彫刻群は、彼のジャポニスムを探る上での核と言える。にもかかわらず、これらの連作は、日本ではある時期を除いてあまり話題にならず、またモデルとその作品を巡る日本での受容は、興味深い過程を辿った。すなわち、日本における花子(モデル/作品)の受容史を見ると、初めにモデル・花子に関する欧米の新聞・雑誌の記事や写真が逆輸入され、次に花子本人の声、最後にロダンの作品《花子》という順序を経たのである。従来、ロダンと花子を巡っては、モデルとなった生身の花子へのゴシッブ的関心がとりわけ日本では強く、併せて当時の西洋崇拝に関連して日本排他の傾向が特に知識人層に見られたことから、女優花子は正当に評価されなかった。その活躍ぶりが実地に調査され、ようやく正当な評価がなされるようになったのは近年のことである。このことが、以後の作品《花子》の解釈に影を落としているとは言えないが、何れにしろ日本での花子評価は、ポール・クセルが筆録したロダンの花子賛美と固執とは全く裏腹なものだったと言える。
欧米からのモデル・花子の逆輸入から少し遅れて、ロダン作《花子》の輸入が始まる。ロダンが《花子》の日本での公開を望んでいたことは、1912年に与謝野寛・晶子夫妻がパリでロダンに会い、日本におけるデッサン展について協議した際、出品作の中に彫刻《花子》も含めることを検討していたことから伺える。しかし、大正期から第二次大戦終了までを見ると、日本での《花子》の公開・展示は少なかった。パリのロダン美術館では、58点の《花子》彫刻を9種類のヴァージョンに区別しているが、1945年までに日本で公開されたのは、そのうち3〜4種類の《花子》に過ぎなかった。そして美術家による批評も、その技法およびロダンの写実の作風に終始していたように思われる。
《花子》の日本初公開は、1922年5月1日から農商務省商品陳列館で1ヶ月間開催された、デルスニス将来による「仏蘭西現代美術展」においてであった。ロダンの彫刻作品は29点が出品され、この中に2点の《花子の首》が含まれた。そのうち一方はパート・ド・ヴェールの《花子の首》であることが判明しているが、もう一方の出品については定かでない。この展覧会を見た中川一政は、「ロダンの花子の首の色付したもの等気味がわるい劣悪なもの」と否定的感想を述べた上で、「ロダンは割に『詩』のない人」だと、総体的に評価した(※1)
一方石井柏亭は、ロダンの作品のうち「カルポーの系統を引くやうなロマンチックな激動の方面」よりも「大望のない小品の方が好もしい」と趣味的感想を述べた上で、パート・ド・ヴェールの技法に注目し、それらは「ブロンズのよりも貴重視されなければならない」と発言している(※2)当時の日本の芸術界にはパート・ド・ヴェールの技法は物珍しかったのだろう。有島生馬も「これを珍重すべきもの」と述べた上で、「施色があるため却って変な感がするが、周囲とのとり合わせでは相応の効果があるだろう」とつけ加えている。さらにロダンの写実精神に即して、次のように肯定的な評価を下している点から、もう1点の出品作《花子の首》が、花子の舞台での断末魔の表情を捉えた「死の顔」の系統であったことが推測される。
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殊に強く吾々の興味を惹くものは「花子の顔」である。これこそ翁の直写実的作品中に於て最も傑出したものの一つである。あれを凝視すると醜美とか、芸術非芸術とかいふ境界を忘れて終ふ。生命そのものの鼓動を親しく感ずる。あまり親しく直接にそれを感ずるので恐怖と苦痛に近い崇美に打たれる(※3)
さて、花子は帰国の際フランス政府から譲り受けた2点の《花子》彫刻を持ち帰った。日本への初の《花子》将来である。そして1924年に東京美術学校に寄託した。このニュースは多くの新聞・雑誌に取り上げられ、中には全くのフィクションと思われるものもあったが、恐らく花子への取材を軸にしたと思われる文章がマスコミを賑わせた。しかし、1927年までの東京美術学校寄託期間において、2点の《花子》が公開展示されたかどうかは現在のところ不明であり、これらに対する当時の批評や美術史的評価は見出されない。その後、これらは本人の希望によって元の持ち主へと返還されるが、1941年には個人の所蔵家のコレクションとなった。花子が亡くなる1945年まで、作品《花子》に関して美術史的解釈を試みたのは、《花子》と能面との共通点を看破した、医師・彫刻家の赤塚秀雄が恐らく唯一であり初めてであった(※4)ここに、微弱ではあるが、「ロダンのジャボニスム」を積極的に検証しようとする出発点がある。
この後、日本でのロダン展において《花子》彫刻は欠くことのできない出品作品となるが、「ロダンの中の日本」という観点からの作品解釈は遅れてきたと思われる。ジャボニスムを巡っては、西洋が日本に向けた視線および表象の仕方が問題とされる。ロダンにおいてはそのデッサンに、ジュヌヴィエーヴ・ラカンブルのいうジャポニスムの最終段階、すなわち「日本の美術に見られる原理と方法の分析と、その応用」をジュドラン氏は見出しているものの、日本美術そして日本そのものをどのように消化し、また彼の芸術にどのように昇華されたのかはまだ不明な点が多い(※5)花子に関しても、ロダンを強く捉えたのはその表情であることが残された彫刻作品から看取されるが、クセルに語ったのは肉体の強さの美であり、ここに微妙なずれが生じている。頭も髪も削ぎ落として、顔つまりマスクだけに集中したタイプが存在することから、日本の面との関わりを改めて見直す必要があろう。花子を軸としたロダン研究は、ジャポニスムの観点のみならず、ロダンと非西欧圏との文化・芸術交流がその後の近代西欧における抽象美術へ与えた影響を考察する際にも、今後の重要なテーマとなり得ると思われる。
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オーギュスト・ロダン
ジャン・クロ
《花子のマスク{タイプE)》
1911〜12年
パート・ド・ヴェール
フランス国立ロダン美術館 |
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オーギュスト・ロダン
《死の顔・花子》
1907年ころ
テラコッタ
新渇市美術館 |
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