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研究ノート
《歌川国芳と西洋版画》
 類型の伝播についてのノート


新田建史

 江戸後期の浮世絵師・歌川国芳(寛政9年(1797)-文久元年(1861))が、西洋絵画に強く影響されていたことは、多くの論者によって指摘されてきたところである。この点を論ずる際、しばしば引き合いに出されるのが、飯島虚心の『浮世絵師歌川列伝』に見られる逸話である(注1)。これによると、「栗田氏」なる人物がある日、国芳の許を訪れた時のこと。彼が国芳と話していると、国芳があるものを自慢気に持ち出してきたというのである。

さて閑談して西洋画のことに至り頗る得意の色ありて、手筥の中より、嘗て貯えおきたる、西洋画数百枚を出だして余に示せり。何処より得たるものにや、西洋の絵入新聞などもありし、且いえるは西洋画は、真の画なり。余は常にこれに倣わんと欲すれども得ず、嘆息の至りなりと(注2)

 この逸話に対し、大きな疑義を示す研究者もある。当時の浮世絵師が、西洋の銅版画などを目にする機会はほとんどなかったであろうと思われるからである(注3)。確かに今日の我々に較べて、江戸の庶民が舶来の銅版画等にどれだけ親しんでいたのか、不明である。

 とはいえ、個々の作品を見ていると、どうも西洋の版画に典拠を指摘出来そうな例が散見される。「二十四孝童子鑑」(弘化期)の一点、《董永》(図1)も、そういった例の一つである。岡泰正氏は、この作品に対し、ライレッセ(注4)の『大画法書』に国芳が準拠した可能性を指摘されている(注5)。同書の挿図の幾つかと、この作品の人物像とが類似しており、そしてこの『大画法書』が江戸期の日本に入っていたからである。

 だが、私には、『大画法書』の挿図もさりながら、直接に原型となった版画があるのではないかと思われる(注6)。というのは、《董永》に見られる人物像は、16世紀以降の西洋の版画の中で「類型」として数多く用いられた身振りを示しているからである。例えば、宙に浮かぶ織女に向かって手を差し上げ、驚きを示す人物像である。三人いる人物像のうち、最も手前の人物像は、様々な形でバリエーションが見られるものである。ここでは、エギディウス・サドレルII世(注7)の作例(図2)を挙げてみたい。居並ぶ兵士たちの中央奥に、トランペットを吹く人物が描かれている。この図の場合にも上半身及び左右の腕の角度は《董永》のそれとは異なっているが、こういった人物が類型として用いられていたことは、ご覧いただけるのではないだろうか。

 また地面に座り込んで、上半身をひねりつつ上を見上げている像も、西洋の美術に16世紀以降よく現われるポーズである。ここでは、マルコ・ピーノ(注8)による油彩(図3)を挙げてみたい。画面右下及び画面左中央に、ほぼ同一の人物像が表裏を逆にした形で用いられていることが分かる。このように、同じ類型を裏返したり、左右を反転しつつ転用していく仕方は、16世紀のヨーロッパではごく普通に見られるものであった。そしてこれは、当然版画でも行なわれる。

 同じくピーノの作品の画面右手前景に大きく位置を占める人物像も、類型の転用だと見做し得る。この像の原型の一つには、ラファエロ原作によるヴァチカンのロッジアのフレスコ画(注9)があるであろう。このフレスコは版画になり、ヨーロッパ中に流布した。ここにはウーゴ・ダ・カルピ(注10)のキアロスクーロによる作例(図4)を挙げる。画面右手の人物像は大股に走り去りつつ、背後を肩越しに振り返っている。上半身のポーズを少しずつ変化させつつ、この類型は他の様々な作品(図5)(注11)に現われていく。国芳はおそらく、こういった類型を用いた版画もまた、何らかの形で目にしていたであろう。例えば「唐土二十四孝」(嘉永6年(1853))の(図6)では、やはりこの類型が用いられているのである(注12)

 国芳が原型として直接に用いた版画を指摘することは、今のところ出来ない。だが上述したような類型を用いた版画を、おそらくは目にしていたことであろう。冒頭に挙げた逸話に見られるように、国芳がある程度の枚数の西洋画を収集していた可能性は、むしろ認められてもよいのではないだろうか(注13)

(当館学芸員)


(注1)
初出は明治27年(1894)の新聞、『小日本』。同紙はこの年2月21日に創刊され、7月15日に廃刊された。「歌川列伝」は4月1日号から連載されている。今回用いたのは、1993年、飯島虚心著、玉林晴朗校訂、『浮世絵師歌川列伝』、中公文庫。

(注2)
1993年『浮世絵師歌川列伝』、p.204.

(注3)
「彼のこういう洋風の源泉については、『歌川列伝』にある国芳が蓄蔵していた西洋絵入新聞の切抜を、これこそ真の絵と述べた記事がよく引用される。然し実際的な入手可能性を想うとき、この記事は一概に信じ難い。彼よりやや前の亜欧堂田善の銅版画や、森島中良の『紅毛雑話』の挿絵類ではなかったかと想像する。」鈴木重三、「総説・末期浮世絵」『国貞/国芳/英泉』浮世絵大系10、1974年、集英社、p.85。鈴木氏はまた、「(国芳の)洋風描写の依拠作品を、当時江戸にあったはずの唐物屋、すなわち舶来品販売店で扱う諸品、中でも玉板油絵(ガラス絵と解されるもの)に求めたく思っている」とも述べておられる。同書、p.250。「身分の低い浮世絵師が、長崎・出島を通して西洋から舶載される銅版画など(肉筆画−たとえば油彩画−を入手することは、さらに困難だっただろう)を入手し、それを粉本にして自作に取り入れるということが頻繁に行なわれたとは考えにくい。」岡泰正『めがね絵新考』1992年、筑摩書房、pp.158-174参照。引用はp.158-159。

(注4)
ヘラルト・デ・ライレッセ(LAIRESSE, Gerard de., 1640年リエージュで生、1711年アムステルダムで没)。主にアムステルダムで活動した画家。『大画法書』(Het groot schilderboek, 1707年刊)は、彼が晩年に失明した後に著述された。

(注5)
岡泰正『めがね絵新考』1992年pp.156-157。

(注6)
岡氏の指摘する『大画法書』からの影響は、示唆に富む。私がここで言いたいのは、他の版画による影響もまた見られるのではないか、という点である。

(注7)
SADELER, Aegidius(Egidius), II. 1570アントワープで生、1629年プラハで没。

(注8)
PINO, Marco. 1525年頃シエナ近郊で生、1587年にナポリで没。

(注9)
1518-19年頃。ラファエロの原作に基づき、弟子のペリーノ・デル・ヴァーガ(Perino del Vaga, 1501年フィレンツェで生、1547年ローマで没)が完成したとされている。

(注10)
CARPI, Ugo da. 1502年〜32年頃活動。

(注11)
フォンターナ(FONTANA, Giovanni Battista., 1524年頃ヴェローナで生、1587年インスブルックで没)による。

(注12)
「唐土二十四孝」に見られる西洋美術の影響について、坂本満氏が論じておられる。「異国趣味としての洋風画法−国芳の場合」『歌川国芳−唐土二十四孝』町田市立国際版画美術館、1991年、pp.13-23。氏は、洋風画法が「唐土二十四孝」に大幅に用いられていることについて「これが日本のではなくて、中国の説話であるところに元来異国的な洋風技法をこれほどにまで適用する理由があったと私は考えている」と述べておられる。洋風画法の選択的な需要という点で、江戸期の浮絵を詳細に分析した岸文和氏は、「浮絵の遠近法は、一種の複合大系と見なされるべきである。そこにおいて、幾何学的遠近法と平行遠近法とは、一種のモジュール(module)、すなわち「規格化され独自の機能をもつ交換可能な構成要素」として、選択的に共存している」と述べておられる。岸文和『江戸の遠近法 −浮絵の視覚−』、勁草書房、1994年、p.38。

(注13)
飯島虚心の『浮世絵師歌川列伝』に、歌川派の修業方法が、「西洋式」」であったことが述べてある。花田伸一氏の「歌川派の“洋風”をめぐって(ニ)」『美の森』(北九州市立美術館ニュース)no. 94, 1999年1月31日発行を参照。

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図1 歌川国芳《董永》
「二十四孝童子鑑」より
図2 エギディウス・サドレル《シバの反乱》
「ダビデとサウルの物語」より
 

図3 マルコ・ピーノ
《キリストの復活》
図4 ウーゴ・ダ・カルピ
《ダヴィデとゴリアテ》
 
 

図5 ジョヴァンニ・バッティスタ・フォンターナ
《アムリウスに捉えられるレムス》
「ロームルスとレムスの物語」より

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