去年の秋以来、私の頭のなかで、たくさんの牛が歩き回り、馬が駆け回っていた。そして今年、馬年になって何とかまとまった。−いきなり何のことかと思われただろうが、「狩野探幽はじめ江戸狩野三十六名合作の《牛馬図》双幅」という論文を、当館の『紀要』17号に執筆していたときの私の状態である。
《牛馬図》双幅は、それまで紹介されることのなかった当館寄託品 (個人蔵)。『古画備考』46に「牛馬双幅
牛ノ方」と題し落款印章だけが36名分記載されている。その該当作品なのだ。『古画備考』全4冊は、古い日本画を調べるときの必須ツールで、美術館や博物館に常備されている。江戸末期、狩野伊川院栄信の次男、朝岡興禎が目にした作品の図様、落款を丹念に模写し、伝記史料を加えた画家伝であり、日本絵画史の基礎資料とされる労作だ。この本に登場するわけだから、幕末には知られていたことになる。古記録に登場する作品の現存。この事実について報告すべきと感じたが、作品そのものの不可思議さを解き明かしたいという思いが同時にあった。
牛101頭の幅と馬100頭の幅の対幅。絹地に墨画着色、ほぼ畳一枚大の画面いっぱいに細々と描かれた牛だらけ、馬だらけの全体をみると少し気持ち悪いが、個々の牛馬はどこか人間臭く愛すべき表情をみせている。いったい何のためどんな人々が描いたのだろうか。
絵師は36名。各絵師が各幅1図ずつ描いて牛36・馬36の計72図。各図に落款印章が添えられている。36名中5名不明なまま残ったが、31名まで何らかの手がかりをつかんだ。絵師名を列挙しよう。
A. 探幽・安信・常信・益信・探信守政・探雪守定・時信・親信
B. 昌信・清信・信之・友信・秀信・道信・宗仙・興也
C.園井守供・友益・清真・永雲・米村源兵衛・鈴木宗眼・増井貞三・三村常和・池田守卿・狩野昌運・安次・狩野常真・山本素軒?・桃田柳栄?・柳円久信
?(?は推定) 不明絵師の落款=「浦雲幸辰」「梅夕」「安重」「政重」「安定」
Aは、狩野探幽(1602〜74)をはじめ、その弟や甥、息子たちなど名ある絵師なので分かりやすい。一方、耳慣れないB〜Cの調べは難航し、ずいぶん時間がかかった。その結果、江戸初期、探幽の晩年期における狩野一門の顔ぶれと判明したのである。
江戸時代の狩野派は、探幽三兄弟からはじまる鍛冶橋・木挽町(のちに木挽町から浜町家が分立)・中橋(本家)の各狩野家が「奥絵師」と呼ばれ、将軍に面会できる高い地位をもって徳川幕府に直属。狩野分家14家は「表絵師」と呼ばれ、奥絵師を補佐。全国各藩の大名の多くも「お抱え絵師」を狩野門に学ばせたため、全国に狩野派ネットワークが広がっていき、奥絵師を頂点とする巨大企業の様相をしめしていくことになる。
上記Aが奥絵師で3家そろう。Bが表絵師および徳川御三家の絵師。当時の表絵師9家のうち駿河台・山下・下谷御徒士町・麻布一本松・神田松永町・築地小田原町の狩野6家と、水戸・紀州の各徳川家抱えの絵師である。Cは、探幽・安信・益信の門弟たちだが、のちに福岡藩黒田家、島根・松江藩松平家、香川・高松藩松平家、山形・庄内藩酒井家など、有力大名の藩のお抱え絵師になった者が含まれており、尾形光琳が最初に狩野派を学んだといわれる山本素軒も入っている。幕府絵師から、のちに全国各地のお抱え絵師になる者まで、当時の狩野派の有力絵師ほぼ勢ぞろい、といった観のある顔ぶれなのだ。しかも画面上部は奥絵師、表絵師、御三家絵師、下部は門人たちと、上から下へほぼ絵師の序列順にならんでいる。作品そのものが、江戸初期狩野派の見取図あるいは縮図になっているといってもよい。
詳細については論文を参照いただきたいが、全体として狩野派の画風で統一されつつ、各図をみていくと絵師ごとに個性の違いがある。制作年代は、各絵師の活動期と落款の表記をもとに検討した結果、寛文8〜13(1668〜73)年の6年間に絞りこむことができた。絵師たちの年齢構成は、10代から70歳前後まで各年齢層にわたることになる。
奥絵師・表絵師・御三家絵師・大名お抱え絵師・門人と、さまざまに階層を異にする、しかも10代から70歳前後まで各世代、老若の狩野派の絵師たちが、36名ずらりと広間にならび坐している。彼らが順に絵絹に近づいて絵筆をとり、あらかじめ決められていた位置や広さを守りながら牛図を描き、馬図を描いていく。先輩絵師のアドバイスを受けながら…。そのような光景が目に浮かぶようになったのだ。
室町時代にはじまり戦乱の世も切り抜け、集団制作のノウハウを身につけながら確固とした地位を築いていった狩野派。
17世紀なかば過ぎころの狩野派は、京都御所(宮廷)の障壁画制作という巨大プロジェクトに寛文度(1662年)、延宝度(1674年)の二度にわたって携わっていた。そうした集団制作遂行のためにも、彼らは結束をつねに確認し、さらに強固にしていく必要があった。《牛馬図》のような大掛かりな合作も、公儀の大事業に向けての結束固めであり、集団制作のシミレーションであったのだろう。
ではなぜ牛と馬なのか。牛馬は、絵師たちにとって必須科目ともいうべき古来描き継がれてきたモチーフだが、合作した年は、牛年あるいは馬年だったのではないか。そこで、先に限定した制作時期=寛文8〜13年の幅のなかに牛年・馬年の年を求めると、寛文13年(1673)が牛年である。さらに36名中の有力な絵師が生まれた年を調べてみると、安信と益信が牛年、時信が馬年の生まれ。しかも牛年の寛文13年、探幽の実弟で狩野本家の当主である安信は、数え61歳で還暦にあたり、安信の後継ぎとなるべき時信は馬年の生まれであった。この事実から、安信の還暦の祝いを記念して、安信の干支=牛と、後継者時信の干支=馬とを描く対象として選んだ。これが具体的な制作目的として考えられるようになったのである。
この作品は、探幽研究にとって探幽晩年の環境を教えてくれる重要作だが、それだけではない。たとえば福岡藩の狩野昌雲季信は、福岡ではかなり研究が進み、多くの作例が知られていたが、それらよりはるかに早期の作となる。季信だけでなく門人たちの図が、それぞれ若いころ江戸の狩野家で修業としていたころの得がたい作例となるからである。
作品調べの段階、痛感したのが、絵師の広がりにも似た全国の研究者のネットワークのありがたさだった。福岡・島根・福井・香川・山形のお抱え絵師の情報について、各地域の研究者・学芸員仲間に連絡し、当地でしか知られていない貴重な情報をお教えいただくことができた。一方で《牛馬図》の出現は、各地域の絵師たちに、全国にひろがる狩野派絵師との接点を与え、それまでの地域の絵師という範囲から日本絵画史の大きな潮流のなかの絵師へと視野を広げてくれたのである。
ともあれ、調べる前にはまったく見えなかったことが、かなり見えるようになった。調べなければ、たちこめた霧は晴れてくれない。だれが・いつ・どこで・なにを・なんのために・どのようにして、という素朴な問題設定に始まり、ひとつずつ調べていった結果、絵の生成の現場まで想定できるようになったのだ。調べるというひたすら地味な作業の積み重ね、それは我々学芸員にとってとても大切な営みなのである。 |