ヴァティカン図書館には、《ローマの眺め》として知られるフレスコ画(図1)がある。このフレスコ画は、僅か5年という短い在位期間にも関わらず、驚異的な速度でローマの都市整備を推進したローマ教皇シクストゥス5世(在位1585-1590)の時代に描かれたと推定されている。5年の在位期間中に、シクストゥス5世「聖年」に各地から集まる巡礼者たちのために、主要な教会や広場を道路と併せて整備した。しかし、この《ローマの眺め》でそれ以上に興味を惹かれるのは、当時のローマ市街がアウレリアヌス帝によって築かれた城壁内の凡そ3分の1に止まっているという点である。このフレスコ画をよくみると、たとえば、有名なスペイン階段の上に聳えるトリニタ・デイ・モンティ教会の東側や、コロッセオ、フォロ・ロマーノの南側は、城壁の外側と同じく緑野の広がりとなっている。市街と牧歌的田園との比率は、18世紀の中頃でもそれほど変わることなく、当時制作されたローマの地図はそのことをよく示している(ちなみに1748年におけるローマの人口は150,000人前後であり、イタリア統一が果たされた19
世紀の後半であっても500,000人を超えることはなかった)。
18 世紀後半のローマは、壮麗な教会や宮殿が建ち並ぶ一方で、田舎臭く卑俗な雰囲気を漂わせていた。18世紀末から19世紀はじめにかけて、ローマに滞在した外国人たちの間には、到着当初はこの都市の卑俗と汚さに幻滅したものの、やがてその幻滅を讃美へと変えた者も少なくなかった。批評家で画家のドレクリューズは、不潔で悪臭を放つローマの道に辟易し、フォロ・ロマーノの雑然とした光景にうんざりしたが、ある日突然コロッセオの優美さに目覚めている。詩人のスタンダールは、ポポロ門の外観のみすぼらしさに批判を浴びせ、「ローマにやって来て二ヶ月目には時に退屈を覚える。だが、十ヶ月目になればそのようなことはない。十二ヶ月目にはずっとここにいられたらよいと思うようになる」と述べている。最初抱いた嫌悪感はまもなく消え去り、次第にローマを貪欲なまでに受け入れたくなり、ローマに滞在することで自らの生命の力が増していくのを感じる――当時の芸術家や文人たちの多くに共通して認められるのは、こうした感情の変化であった。ローマにおける「壮麗と醜悪」「崇高と卑俗」は、城壁内の市街と田園と同じく、対比を見せながら共存していたのだった。フランス人の画家、ユベール・ロベールによる壮大な遺跡やモニュメントに卑賤な乞食やジプシーを組み合わせたローマ風景は、まさにローマを特徴づけるこのコントラストを映し出している。
「ローマにおいてローマ人は少数派であった」と言われる。17世紀でみても、たしかにローマの城壁の内側には、美術家を含め夥しい数の外国人が居住していた。ローマは歴史と文化の磁力によって、イタリア各地はもとより、フランス、ドイツ、イギリス、オランダ、フランドル等から美術家を引き寄せ、様々な様式や伝統の交差する国際都市を形成していた。彼らの多くは、スペイン階段の近辺、すなわちバブイーノ通り、マルグッタ通り、システィーナ通りなどに住んでいて、その滞在年数は時にローマ娘との恋愛によって引き延ばされ、なかにはローマに骨を埋める者もいた。1770年から60年間に限ってみても、フランス人の活躍には目を瞠るものがあり、風景画の分野における彼らの貢献は著しかった。たとえば、ヴァランシエンヌ、ビドー、グラネ、デュヌイ、ミシャロン、コローなどは、いずれも風景画の名手であった。彼らが描いた場所を並べあげてみると、ローマ市街だけでなく、城壁の外に遠出していたことがすぐに明らかとなる。ローマの東ではティヴォリ、ヴィコヴァロ、ズビアーコ、チヴィテッラ、オレヴァーノなど、南東ではアルバーノ、アリッチャ、ネミ、ジェンザーノ、フラスカーティなどである。彼らは、城壁を越えてローマの郊外、あるいは遠方にまで旅し、目の前に広がる風景を鉛筆や油彩で紙に描写したのであり、その地域的広がりは、1770年以前にピラネージが「ローマの景観」シリーズでローマの城壁内の建築物や広場の景観を中心に版刻したことと好対照をなしている。しかしながら、城壁の外に遠出して風景を描写するという美術現象は、18世紀後半に始まったわけではなかった。
画材や食料を驢馬にくくりつけたり、馬車に積み込んだ画家たちは、城壁を潜り抜けたのち、ローマ郊外やローマから遠く離れた土地へと向かい、屹立する奇怪な岩山も奈落を想わせる奥深い峡谷もないカンパーニャ平野の静穏な眺めを描写した。17
世紀の文献史料によれば、フランス出身のクロード・ロランがドイツ人の友人ザントラルトとともに、ティヴォリやフラスカーティに足をのばし、現場で油彩スケッチを残したことが記されている。クロードの油彩スケッチは残念ながら現存していないが、18世紀後半になるとティヴォリの有名な滝や岩場を描く画家たちは続々と現れてくる。ローマ市街だけでなくローマ周辺の風景を描写したのは、アルプスを越えてやってきた画家たちであり、イタリア人画家ではなかった。17世紀におけるアルプス以北の画家たちによるカンパーニャ平野の発見は、後世の西欧風景画の発展を予告したと言ってもよかった。そして、外国人画家がいつでも受け入れられ、自由に活動できる国際都市ローマにおいてこそ、こうした発見は可能となったのだった。
18世紀にグランド・ツアー(ヨーロッパ大周遊旅行)が流行した。英国貴族の御曹司たちは、文化的先進地での「修学」を目的に、ローマやナポリに数年間滞在し、絵画・彫刻・古代の遺物・コインなどを購入し本国に送り込んだ。他方、美術家や詩人たちは異なっていた。1786
年からイタリアを巡り歩いたゲーテにとって、イタリア滞在の目的は自然現象と造形美術の観察を通して「見ること」を学ぶことにあった。ゲーテは言う、「ローマに足を踏み入れたときから、第二の人生が、真の人生が始まるのだ」。また、同じ頃、『イタリア書簡』を著したシャルル・デュパティは、ローマの城壁の外にある古代の噴水を訪れ、「古代の円柱の下、凱旋門の上、廃墟となった墓の奥深く、苔むした噴水の辺で生まれた考え、感情、感動」を持ち帰るのだ、と書き残している。定型化し表層的な美術への趣味をむき出しにした英国貴族とは異なり、真の美術家や文人たちに見出されるのは、壮麗と卑俗が交じり合ったローマとその周辺の全容を最高のものとして享受しようという態度であった。日々ローマ内外を散策し戸外制作をすすめていたヴァランシエンヌ、グラネ、ミシャロン、コローたちも、そうした態度を共有していたに違いない。 |