●研究ノート
香鹿子木孟郎《紀州勝浦》について ― 油彩画制作に対する姿勢― 泰井 良 |
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太平洋に迫り出したリアス式海岸、眩いばかりの陽光を浴びて鮮やかな色彩を放つ砂浜や岩壁。鹿子木孟郎《紀州勝浦》(明治43年 油彩・キャンヴァス、59.0×74.8cm、当館蔵 図1)は、彼が二度目の滞欧を終え、帰国した直後の明治43年7月から8月にかけて紀州(現在の和歌山県)を訪れた際に、制作したものである。明治40年、鹿子木はノルマンディーのイポールに滞在し、《ノルマンディーの浜》(油彩・キャンヴァス 164×219cm)を制作しており、そのため帰国後はノルマンディーの地形や気候に類似するところの多い紀州海岸をモティーフにして制作したと思われる。紫や緑といった鮮明な色彩を効果的に用いながらも、画面全体を穏やかで優雅な色調にまとめている。小山正太郎の不同舎に学んだ鹿子木は、「旧派」、「脂派」に属する画家とされ、黒田清輝の白馬会に比べて、暗い色調が特徴のように言われがちだが、本作品を見る限り、鮮明で生き生きとした色彩が目立ち、色彩画家としての鹿子木の力量が充分に示されている。
さて、本作には、ほとんど同じ構図で制作されたヴァリアントが存在することが文献から判明している。《紀州勝浦》(4尺8寸×6尺(約150×180cm)、所在不明、入澤達吉医学博士旧蔵品 図2)は、明治43年に開催された第4回文展および同年の関西美術会展に出品されている。旧蔵者の入澤博士は、内科医で大正天皇の侍医や尾崎紅葉の主治医などを務めた名医である。本作は、現在所在が不明で、図柄は『日展史』や『鹿子木孟郎記念画集』(昭和9年11月1日刊行)で確認するしかない。そのため、両者の詳細な比較は難しいが、文展出品作は、大画面ということもあり、当館所蔵作に比べて画面構成が堅固になり、造形的に構築されたものになっている。例えば、文展出品作では、岩壁に極太の描線を用いて、対象の存在感を強調したり、あるいは木々など細かい対象を省略し画面を整理しているが、当館所蔵作には、そうした傾向はあまり見られず、より自然に近い自由な描写になっている。それゆえ、鹿子木はこの時期、紀州勝浦に取材した同じ構図の作品を何点か制作し、文展出品作に向けて徐々に画面の構築性を高めていったと考えられる。
鹿子木は、明治21年、松原三五郎の天彩学舎で擦筆画を学んだ。松原は、中川八郎など後の明治美術会で活躍する画家たちを育成しており、正確な対象描写で知られた画家である。
不同舎入門後の鹿子木は、鉛筆写生に明け暮れる日々を送り、他の門人たちと同様、写生旅行に出かけている。この時期、彼が残した鉛筆画《府中 鶏争穀》(鉛筆・紙 29.5×46.5cm、府中市美術館蔵)や水彩画《野菜図》(水彩・紙 26.5×49.6cm 府中市美術館蔵)を見れば、彼が如何に対象を精緻に把握する技量に優れていたかが分る。また、他の門人たちに比べて、空間を把握し構成する能力に秀でており、遠近法に従いながら、各々の対象が的確に配置されている。しかし、それは時に、道路が一点集中の遠近法によって神経質なまでに収斂されるなど、そこには独特の緊張感が漂っている。それ程までに、鉛筆画によって対象を正確に捉えることに習熟した鹿子木だが、パリでジャン=ポール・ローランスに師事したことで、彼のアカデミックな絵画修業は、さらに進められることになる。その成果を示す作品の一つが《ノルマンディーの浜》であり、本作制作のため、鹿子木は夥しい数のデッサンを残している。その中で注目すべきなのが、油彩によるスケッチ群で、それらは全体の構図を大まかに把握するものから、人物の四肢、船の部分などを細部に至るまで精緻に描写したものである。そして、これらは絵具が薄く塗られていることから考えて、何度も重ね塗りしたものではなく、瞬時に描き上げた「オイル・スケッチ」であることが分る。鹿子木の油彩画制作は、絵具を何度も塗り重ね、修正を繰りすものではなく、一気に描き上げるものであり、そのためには周到な「オイル・スケッチ」が不可欠だったのである。
こうして鹿子木は、フランスで学んだアカデミズムを自らの絵画制作の基本とし、徹底したデッサンの後、本画制作へと移り、堅固に構築された画面を作り出した。他の画家であれば、不同舎で身につけたデッサンをもとに自由な表現の道を模索するところだが、鹿子木の場合には、ストイックなまでに制作の基本であるデッサンに拘った。だからこそ、「水彩画なのだからまず人体デッサンなどとやかくいうな」という論調の「水彩画論争」には、全く同感できなかったのである(鹿子木の水彩画をみれば、彼の力量は明らかであるが)。このように鹿子木は、日本でアカデミズムを実践し完成させようとしたが、それが日本において浸透したか、そもそもそうした手法が、日本の風土に馴染むものであったかどうかは検証を要する。
ここで、再び当館蔵《紀州勝浦》を見てみる。対象は精緻に捉えられ、画面は堅固に構成されていて、鹿子木のデッサン力は、充分に示されている。また、先に述べたように、「紫派」と呼ばれた白馬会系画家の特徴とされた鮮明な色彩および外光表現は、この画面を強く印象づけるものとなっている。それに加え、黒田の即興的でやや堅実さに欠ける表現とは違って、しっかりとした構成と温雅な色調が、この作品に厳格さと品格を与えている。
一方、文展出品作ではどうであろうか。岩盤や砂浜に広がる岩場の描写には、太い描線が見られ、堅固な対象描写をもたらしているが、木々の描写を省略するなど画面には生硬な感がある。自由で伸びやかな筆致は薄れ、より構築性の高い画面となっている。制作時期は下るが《山村風景》(大正3年 油彩・キャンヴァス 137×211cm 岡山県立美術館蔵)を見ても、画面構成は、構築的になっており、山間の農家は、低い視線から仰観することを想定してか、異様なまでに細長く描かれていることが分る。
このように自然から直接に得られるリアリティーを重視するスケッチから、それをもとにアトリエで構想する完成画に至るに従って、画面構成における構築性は高まっていくが、その制作態度が鹿子木の場合には、自らの絵画制作の基本であるアカデミズムの理念に従っていることは言うまでもない。彼は、アカデミズムの完成に向けて生涯に渡り努力を続けたが、それが果たして「表現」というレベルにおいて有効だったのかという疑問が残る。彼の「修業のための修業」というストイックな態度は、絵画表現から自由で伸びやかな要素を奪い、生硬な印象を残したのではないか。晩年に制作された《大台ヶ原渓流》(油彩・キャンヴァス 53×72.5cm 図3)をはじめとする風景画をみると、厳格な画面構成に徹するあまり、画面に「遊び」の要素がなく、何となく気詰まりで、生硬な感じがする。それに比べて、当館蔵《紀州勝浦》は、瑞々しい色彩と堅固になり過ぎない画面構成が、観る者に自由で伸びやかな空気を伝えていて、鹿子木作品の中では、自然な感じの残る作品となっている。
精緻なデッサンから完成作へというアカデミズムを基本とした絵画制作と自然から感じ取る生々しいリアリティーをもつスケッチ、この両者のバランスは絵画制作にとって極めて難しい問題だが、鹿子木の場合には、黒田の外光派アカデミズムという折衷的な様式が主流となった明治期の洋画界において、真のアカデミズムを探究し根付かせることを求められた。その使命感が、彼をして徹底した絵画修業に駆り立てたが、そのことが自由な表現を制限しなかったと言えるだろうか。
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(当館学芸員)
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