図1は、当館所蔵のジョアン・ミッチェル(1926―1992)の作品《湖》である。重なりあう激しい線、画面を印象づける深い青、白と混ざり合った中間色、これら絵を構成するさまざまな要素が混合した画面は、憂鬱でナイーブな気分を放っている。しかし、色や線が表出する不安定さの中にも、画面全体を統一し秩序づける冷静で知的な計算がなされていて、この作品はどこかしら静寂さすら漂わせている。この混沌とした画面に秩序を生み出している構図や色彩バランスの源泉はどこにあるのだろうか。本論考では同作品の色彩、構図の特質とその源流について考えてみたい。
1.三層からなる画面構成
画面は、縦方向に上中下からなる三層構造でできている。中間層の線が密集した領域では、深い青を基調に、黄、緑、赤の原色の線が跳躍している。すばやい斜めの鞭打つような線や踊るような短い弧のストロークが重なり合い、動的なエネルギーを発散している。ところどころ絵具が厚くもり上がっている箇所が見られるいっぽうで、かすれや滴りの痕跡もある。 一方、この中間層の最上部の位置からキャンヴァスの上辺にかけての領域には、水平と垂直にハイライトの白のほか、青、緑、黄の勢いのある垂直と水平の線が何本か引かれている。線同士が交じり合い、シャープな四角い面が形作られている。この面の中は白や、白に黄や青を混ぜた中間色で塗りこめられているために、輪郭線のはっきりした白い四角の面のようにも見える。
画面下の層では、真ん中の層から縦方向に蛇行して降りてくる線と、キャンヴァスの下辺近くで横方向に波打つ線とが、ところどころで垂直に交差し、いくつかの鈍い区画が作られている。画面の最下部は、塗り残されて地の色が露出しているところがある。
2.奥まっていく空間構成
中央の層は、一見すると装飾的で平らな画面に見えるのだが、よく見ると寒色系の青や緑の上に重ねられた、暖色系の黄と赤の配置のバランスによって、線と線とが密集し重なり合う領域に、浅い奥行き感が表れている。さらに上下にも目をやって、画面全体をじっくりと見つめているうちに、ふいに、こんどは目の前に、手前から奥へと連なる三次元の空間の広がりがみえてくる。画面上下部の水平と垂直に交差する線は、そこに空間があることを暗示し、画面上部の白く四角い色面と、画面下部の鈍い区画が、それぞれ少しずつ重なり合い、右方向に行くにしたがって次第に大きくなっていく。それによって画面の左から右方向に漸次的に後退していくようにみえる効果がもたらされている。加えて、画面最下部の塗り残しもまた、画面に奥行き感を生み出す効果を与えている。
3.セザンヌの構図や色彩バランスとの類似点―《湖》のモダニズム的特質
興味深いことに、セザンヌの晩年の抽象傾向を強めた絵画に、このミッチェルの画面構成との類似点を見出すことが出来る。セザンヌの最晩年の油彩画《レ・ローブの庭》図2を見てみたい。画面は、途切れ途切れの短い線からなる横に伸びた水平線によって区切られる上中下の三層構造からなっている。各層の内側は青、紫、緑の寒色系と、オレンジ、黄、ピンクの暖色系の小さな色面によって構成されており、この小さな色面が、互いに色を混ぜ合わせることなく別の小色面と前後に少しずつ重なり合うように配置されている。この色面の重なりおよび、寒色系と暖色系の色の配置のバランスによって、手前から奥へと後退する視覚効果が生まれている。またこの小色面には縦横の輪郭線が描きこまれており、この垂直水平に交差する輪郭線の効果も、最下部の塗り残しと同様画面に立体感をあたえる重要な役割を果たしている。先に述べたようにミッチェルの絵画もまた、上中下三層の画面構成、四角い色面の重なり、寒色系と暖色系の色の配置のバランス、水平垂直の線・塗り残しなどによって画面に奥行き感と秩序を生み出している点で、セザンヌの画面構成との類似性を指摘することができる。
4.抽象表現主義における「モダニズム」の源泉
川田都樹子の論考※1は、ミッチェルの作品にセザンヌとの類似性を見出すことがあながち的外れではないことを教えてくれる。川田はこの論考のなかで、抽象表現主義の造形表現の源泉をたどると、画家でも教師でもありアメリカの抽象表現主義の発展に大きく寄与したハンス・ホフマン(1880〜1966年)や批評家のクレメント・グリーンバーグ(1909〜94年)らによるセザンヌの構図の徹底的な解釈に行きあたる、と論じると同時に、ヨーロッパのモダンアート、とりわけセザンヌを重視する姿勢をアメリカに根付かせた人物こそ、ハンス・ホフマンおよび彼の美術論であった事を明らかにしている。
ミッチェルに話を戻すと、1944年から47年のシカゴ・アートインスティテュート滞在中よりもっぱらセザンヌに傾倒していたことをミッチェル自らが述べており※2、ジュディス・バーンストックは、1940年代のミッチェルが、セザンヌ晩年の水彩による風景画の影響のもとに抽象度を高めていった点を指摘している※3。また、1947年、故郷のシカゴからニューヨークに渡ったミッチェルは、当時すでに高名な教師であったホフマンに憧れ、彼の授業でホフマン流セザンヌ解釈ともいえる「プッシュ・アンド・プル」と呼ばれる美術論に直接触れる機会を持っていた※4。そして、《湖》が制作された1950年なかば、デ・クーニングやフランツ・クラインらと並んで、ミッチェルを高く評価していた人物こそ、このホフマンであった。※5 当時アメリカにおける絵画の制作現場と密接に関わりを持っていたホフマンや彼の美術論を基礎に展開したグリーンバーグ批評を通じて、セザンヌは作家にとって重要かつ無視できない存在となっていたのであり、ミッチェルもまた例外ではなかったということである。この《湖》は、ニューヨークのギャラリーの展覧会で正式な画家の仲間入りを果たしたそのわずか2年後に描かれた若干28歳の頃の作品である。ミッチェルは、その長いキャリアのきわめて早い時期に、直接的に、なおかつホフマンを通じて間接的に、セザンヌの構図を研究することを出発点に、絵画世界を発展させていったことが《湖》は、教えてくれる。
5.ジョアン・ミッチェルの再評価に向けての現状
現在ミッチェルは、アメリカの抽象表現主義の作家として歴史に名を留めている。しかし、1950年代末に33歳でフランスに渡ってからその後1992年に亡くなるまで、30年以上もの間、絵画制作を続けたこの作家のキャリアの総体を視野に入れた正当な評価は、近年ようやく始まったばかりである。2002年にホイットニー美術館は、同館が長らく行ってきた、新しい才能や隠れた天才を再発見する企画の一環として、没後10年を期にこのジョアン・ミッチェルを取り上げ、複数の視点からこの作家を再検証する試みを行っている※6。ミッチェルが女性であること、そしてキャリアの途中で、アメリカを離れフランスに移住したことなどが、評価活動から取りこぼされてきた要因であると指摘している。故国アメリカでも長らく、「画家や美術関係者の間では神話的存在だったが、一般的な評価は十分にすすんでいない」※7この女性作家の再検討は、日本でミッチェルの作品を保有する数少ない美術館である当館においても今後の課題であり、またその検討を行っていく上で、まず最初に、彼女の造形上の出発点を確認しておくことは、今後の研究の視座となると考える。 |