実物の写真[挿図2・3]と比較してみよう。かなり忠実な再現といえるのではないだろうか。首や胴の丸みの的確な描写によって、対象の立体感が見事に表されているし、地面を踏みしめる脚には、付け根から指先までぴいんと神経が通っている。眼の周りに彩られた深紅色は、絵画的にも効果的なアクセントだが、実物の特徴の忠実な再現でもあった。
実に丹念な細部描写にも目をこらしたい。オスの白い羽根は、墨線による輪郭なしに胡粉のみで描かれ、レースのように繊細な透明感をしめし、首から肩にかけて流れる幾筋もの曲線は、柔らかな羽の質感を見事に表している。体部から尾羽にかけての墨で描かれたジクザク模様は、ハッカンのオスの特徴をしめすもの。
メスの体部のうろこ状に敷きつめられた羽毛も、輪郭線を排除して、触ったら指が沈みこみそうなふんわり感が生み出されているし、墨と素地を実に細かく隣り合わせた複雑な模様の尾羽も、固い質感をしめしながら確かなリアリティを生んでいる。経年変化で見えにくくなっているものの、秋草の菊の花弁やススキの穂は、薄い胡粉のみの透けるような白で描かれており、その繊細さは感嘆の一語につきる。
この絵自体が実物を前にして描かれた、と言いたいのではない。作品は、絹地に着色で描かれた本絵である。中国宋元の花鳥画からの模写では、という意見も出るだろう。だが、探幽が鳥の実物写生をしていた事実と、絵が実物とかなり一致することを考え合わせれば、本絵に仕上げる前段として実物写生があったという推測に無理はない。描くにあたって、宋元画から学習した筆法を用いたとしても、私はあえて、探幽が紙への現物写生を重ね、それを下絵にして絹地の本絵に仕上げたものとみたい。つまり、この絵は探幽の実物観察と確かにつながっている、と言いたいのである。
江戸時代の絵画作品について「写生」の問題を考えるのは、なかなか難しい。今日、私たちは、「写生」について、実物を前にして写したもの、つまりスケッチ=写生という等式のもとで理解している。それは私たちが近代以降の西洋流の美術教育を受けたためだが、近代より前からあった「写生」の概念には、もう少し広がりがあった。
江戸時代における「写生」について、河野元昭氏は、冒頭に掲げた記事を含めて考察された(河野元昭「江戸時代「写生」考」『日本絵画史の研究』吉川弘文館 1989年)。そのなかで、江戸時代の画論書の「写生」の語の使用例を分析され、近代より前の「写生」には、スケッチより広い意味があることを指摘された。
具体的には、(1)対看写生「現在のスケッチと同様に対象を見ながら描く行為や作品」という意味以外に、(2)生意写生「対象の生意を把握、描写することで観察と同時である必要はない」、(3)客観写生「客観的正確さを主眼としたもの」、(4)精密写生「精巧緻密な描写のこと」の意味で用いられていること、この広がりの一部にすぎないスケッチの翻訳語として、「写生」の語が採用されたと説かれた。ある作品が、これら4つの写生のどれかひとつにあてはまる、というのではない。個々の作品に、これら4要素が複合的に表われてくるのである。探幽筆《白鷴図》の場合、(3)と(4)はもちろんだが、(2)の要素が濃厚だと感じられるし、その前提として(1)の下絵が作られていたに違いない、そのように私は考える。
探幽と写生の密接な関係をしめす本絵といえば、これまで福岡藩主・黒田家伝来の探幽筆≪獺(かわうそ)図≫(福岡市美術館蔵)がとりあげられてきた。今後、当館の探幽筆《白鷴図》、さらに畠山記念館の探幽筆《白鳥図》も含めるべきだろう。教科書では、写生を本絵に生かし始めたのは円山応挙(1733〜95)とされるが、実は探幽がいち早く実践していたのである。
江戸時代絵画の幕を開けた画人として、探幽の重要性は繰り返し確認されていくにちがいない。探幽筆《白鷴図》が収蔵され、当館の探幽作品は6件と充実、それらには探幽のさまざまな魅力が秘められている。その解き明かしを、さらに進めていきたい。 |