昨年当館で開催した「物語のある絵画-日本画と古典文学の出会い」展(平成17年6月10日〜7月18日)では、文学主題に取り組んだ近代の重要画家の一人として松岡映丘(明治14〜昭和13/1881〜1938)を取り上げた。本稿では、この展覧会にご出品いただいた映丘の出世作《宇治の宮の姫君たち》(挿図1)を取り上げ、この機に新しく分かったこと--左隻の主題とタイトルの問題--について報告したい。
主題について-左隻場面の検討
《宇治の宮の姫君たち》(大正元年(1912)絹本着色
六曲一双屏風)は映丘32歳時の文展初入選作品だが、展覧会出品以降はやくに行方が分からなくなり、関東大震災で焼失したものとされていた。しかし、没後40年を記念した「松岡映丘展」(昭和53年(1978)兵庫県立近代美術館)を機に再び見出され、姫路市立美術館の所蔵となったものである(注1)。
月を愛でる春秋の王朝風俗が鮮やかな色彩で描き出され、タイトルから、『源氏物語』宇治十帖に材を取ったものとされてきた。右隻は第四五帖「橋姫」より、宇治の八の宮邸を訪れた薫が、宮の二人の姫君--大君と中の君--を垣間見る場面。琵琶を前にした姫がにわかに明るくなった月光に撥をかざして「扇ではなく、これでも月は招き寄せることができそうなものでした」と空を仰ぎ、琴に身を伏せるもう一人の姫君と語り合う。庭にはハギやフジバカマなどの秋草が茂る。
映丘は、徳川美術館所蔵の国宝《源氏物語絵巻》を手本としてこの場面を描いており、薫の姿と建物の構図は「東屋二」から、邸内の姫君たちは同一主題「橋姫」から図様を採り、いずれも反転させて組み合わせている。透垣越しに邸内を覗き見るはずの薫が簀子にまで上がりこむのは映丘による改変であるが、姫君に背を向けて穏やかに月を眺める薫の姿には、垣間見を契機として始まる男女3人の複雑な恋の予感は感じられない。ストーリー展開や登場人物の心の機微よりも、王朝貴族による秋の夜の合奏と月見、という雅趣の表出に重きを置いた画面作りといえよう。
一方の左隻はどのような場面だろうか。それを知るために、まず図様を観察しておきたい。画面左手には建物が張り出し、簀子には貴公子の姿が、邸内にはわずかに顔をのぞかせる女性の姿が見える。右手に広がる庭をタンポポやナズナなど春の植物が飾り、上空には大きな月が浮かぶ。物思いにふける貴公子のしみじみとした情感をあおるように、背後から桜の花びらが舞い落ちる。
作品タイトルからすると、この情景も宇治十帖の一場面と考えるのが自然であろう。男女が匂宮と浮舟であれば主要人物が揃うことになる。しかし、人物が誰であれ、「春、月夜に会う男女」に該当する場面は宇治十帖には見当たらないのである。そこで、いったんタイトルを脇に置き、宇治から離れて該当場面を探してみると、第十二帖「須磨」にまさしくこの情景を見出すことができる。政情一変して須磨へ退くことになった光源氏が、暇乞いに訪れた左大臣邸を発とうとすると、空にはたいそう美しい有明の月がかかっていた。高欄に寄りかかり、盛りの過ぎた桜や霧たつ庭の様子をしばし眺める源氏。共に夜を過ごした女房・中納言の君が、妻戸を押し開けてその背を見送る。
「須磨」からは、都を離れた源氏の望郷の念やわび住まいの風情が主題となることが多いが、土佐光則《源氏物語画帖》(徳川美術館蔵)や、その図様を継承したと考えられる子・光起の画帖では、左大臣邸の場面が選択されている。挿図2を見ても、本作左隻場面との親近性は明らかだろう。
テキストとの整合性および光則系源氏絵との類似から考えて、左隻は「須磨」に取材したものとして間違いないと思われる。古典文学や先行作例を熱心に研究した映丘であれば、出番の少ないこの場面の採用も納得できよう。構図はやはり古絵巻を参考としており、左右反転させれば国宝《源氏物語絵巻》「宿木三」に大変よく似通っている。
タイトルの解釈について
さて、ではそうなると、先ほど棚上げした《宇治の宮の姫君たち》という作品タイトルについての疑問がよみがえってくる。これまで特に言及されてこなかった左隻場面が「須磨」であるとするならば、宇治の宮の姫君たちとは関わりがない。つまり、現タイトルは右隻主題のみから付けられたことになる。
この点について考える基礎的な材料として、同時代資料における員数の表記について確認しておきたい。資料には、大正元年10月11日付官報に文展入選作として「宇治の宮の姫君たち」の作品名が初出し、ほぼ同時期の発行と考えられる『第六回美術展覧会陳列品目録』(文部省)で初めて「六曲屏風一双」と員数が示される。しかし、吉中氏が指摘されるとおり、同展図録には現在の右隻の写真しか掲載がなく(注2)、さらに画稿も右隻分しか見つかっていないため、一双屏風として再発見されるまでは長らく一隻の作品と信じられてきたのである。早くも、発表の翌年刊行された『日本美術年鑑』(画報社)中の文展陳列品目録では、「六曲屏風半双」とされている。写真は片隻のみながら文展図録にも「a
pair of screens」と明記されており(注3)、当初から一双屏風であったと理解して問題はないと思われるが、多少腑に落ちない点は残るということはいえるだろう。
では、このことも含みこんで、右隻主題のみに由来するタイトルの問題を考えると、どのような解釈ができるだろうか。やや強引だが、文展図録の掲載写真が一隻だった点を考慮して、発表当初は一隻屏風であったが、いずれかのタイミングで左隻が追加され一双となった、という可能性は考えられるかもしれない。そうするとタイトルに関する疑問は解消する。ただし、顔貌表現や衣の描写方法などに左右隻で矛盾はなく、同時代の映丘の作と見て問題ないと思われることから、もしこの可能性について検討したとしても追加の時期については慎重な考察を要することになるだろう。もちろん、何らかの事情で写真が掲載されなかっただけで、当初から現在のような一双屏風であったと考えることもできるが、そうなると映丘は片隻のみからタイトルを付けたのだろうか。
ひとまず本稿では、左隻が『源氏物語』第十二帖「須磨」に取材したものである可能性を指摘するに留めたい。現時点で結論が出せないタイトルに関する疑問については、今後の課題としたいと思う。
(当館学芸員)
土佐光則
《源氏物語画帖》
より須磨 徳川美術館蔵 |
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(注)
1)再発見の事情などは次の文献に詳しい。
木村重圭「松岡映丘筆「宇治の宮の姫君たち」の再発見について」『ピロティ』No.30 兵庫県立近代美術館 昭和53年12月
吉中充代「松岡映丘の画業について-「宇治の宮の姫君たち」から「矢表」まで-」『松岡映丘展』図録
姫路市立美術館 昭和59年10月
2)図録の目録に「a pair of screens」と記載される作品は56点を数えるが、本作を含む3点以外はすべて左右隻両方の写真が掲載される。また3点のうち1点は目録の誤記の可能性が高く、片隻のみの写真掲載は異例のことといえる。
3)前掲吉中氏論文、注5 日本語による員数表記は無い。
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