鈴木敬初代館長を偲んで
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物事は何でも最初が肝心だといいます。したがって美術館であれば、開館に先立つ準備段階が重要ということになります。静岡県立美術館の場合、準備段階の中軸を担われたのは、去る10月18日にご逝去された鈴木敬初代館長でした。鈴木先生は、中国絵画史研究の泰斗として広く知られていましたが、組織を牽引する強いリーダーシップにも定評がありました。何もない更地に家をたてるには腕力がいるわけですから、基礎固めから始める県立美術館の指導者としては最適な方であったように思われます。
鈴木先生が県立美術館の仕事をお引き受けになったのは、それまで日本になかった新しいタイプの公立美術館を生地の静岡に創出したいという夢があったからに他なりません。昭和50年代の日本には、公立美術館が雨後の竹の子のように増えていましたが、自分の理想とする美術館を見出せないのであれば、自らの手で立ち上げるしかない、と考えられたようです。職員に繰り返し主張されていたのは、調査研究を美術館活動の基本に置くということで、この考えについてこられない者がいるのであれば、美術館にいる資格はない、と公言されていました。
美術史研究におけるご指導の中で、私の記憶に最もよく残っているのは、「疑問に感じたことがあったら、そのままにするな。頭がおかしくなるまで徹底的に考えろ」「屁理屈でもいいから、自分の論を構築してみろ」という言葉です。ともすると名のある研究者の意見を読み伝える「紹介学」に終わりかねないのですが、先学のリサーチだけでなく、自分の意見を僅かでもよいので盛り込むよう、若い学芸員に指導されていました。
しかし、その指導には矛盾もひしめいていました。家で美術史の本や論文を読んでいると、鈴木先生から電話が入り、まったく別の用事を遠慮容赦なく課せられました。たとえば明日美術館に行くので、午前中に××の仕事を完了させておくように、といった具合です。せっかちな性分の先生は、一日に何度も電話をかけられ、夜中に部下を叱咤することも多々ありました。
鈴木先生はたんなる学者ではなかった、というのが私の印象です。普通の学者にはない経営感覚や組織を統率する才覚を持ち合わせ、新しいアイデアを次々に出されていました(その中には無理難題が含まれていたのですが)。豪放なワンマン型であった反面、慎重であることこの上なく、とりわけ美術品の購入では、石橋を叩いても渡らないことがありました。人の資質を見抜く力にたけ、部下の操縦法も実によく心得ていらっしゃいました。若い学芸員は時に反発を覚えましたが、それでも先生についていったのは、館長として部下に夢を抱かせてくれたからでした。苦境に陥っても絶対に倒れない、という不屈の闘志は天下一品でした。
静岡県立美術館の基礎を築いていただいたご尽力とご功績に深く敬意を表し、鈴木先生のご冥福をここに心よりお祈り申し上げます。
(当館学芸部長 小針由紀隆)
<略歴>
大正9年 |
静岡県伊東市に生まれる |
昭和42年 |
東京大学教授 |
昭和45年 〜昭和47年 |
東京大学教授 |
昭和50年 〜昭和54年 |
美術史学会代表委員 |
昭和54年 〜昭和60年 |
静岡県教育委員会美術博物館建設準備室参与 |
昭和56年 |
東京大学名誉教授 |
昭和61年 |
静岡県立美術館館長(同年4月開館) |
平成2年 |
日本学士院会員 |
平成5年 |
静岡県立美術館館長 退任 |
<受賞等>
昭和59年 |
紫綬褒章 |
昭和60年 |
学士院賞 (「中国絵画史 上, 中之一」の業績に対して) |
昭和63年 |
「講書始の儀」進講者 |
平成3年 |
勲二等瑞寶章受章 |
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