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●研究ノート
「現代の風景」展に向けて

川谷承子


■「風景」という言葉について

そもそも一般的に「風景」という言葉から、われわれはどのようなものを連想するだろうか。山の稜線や木立などの自然の風景。車の窓から見える高速道路や、買い物途中に目に映る商店街、ショッピングセンターの建物の風景。あるいは、日常の生活から離れて、旅先で出会ったなじみのない風景。また、視点を変えると、衛星から見た地球や、飛行機から見た地上。巨大なビルの建物の中や、自宅の小さな庭先の一部も風景と考えられるだろう。さらに複製されたもの、たとえば映画、新聞、本、インターネットの中にも、風景を見つけることができる。現実には存在しないものとして、人間の記憶や夢の中の風景、想像や物語の世界の中にも風景を探りあてることもできるだろう。風景は、いたるところに現れ、さまざまな視点から発見することができる。

このようにして現れた、現実あるいは非現実の風景は、ごく個人的な経験や想像上のものであるかもしれないし、家族や友人など複数の人とともに共有した風景かもしれない。あるいはもっと広く、国や民族あるいは、ある時代に生きた人類が共に経験した風景であるかもしれない。


■「現代の風景」への問い

当館は、17世紀以降の東西の風景画を作品収集の大きな柱にして、開館以来、作品収集を行ってきた。コレクションされた風景画は、描かれた場所や制作された時代、あるいはその作品の造形的な特徴や美術史学的な位置づけなど、それぞれ異なる属性を持っている。しかし、時代を超えて描かれてきた風景画に共通して言えることは、いかなる絵画にもその作品を描いた画家の、風景に対する解釈や視点が投影されているということである。その視点を知ることを通して、画家、あるいは画家が生きた時代の社会や人間の暮らしや考え方を読み解くことにこそ、風景画を見る面白さはあるのではないだろうか。

われわれが生きる今日も、風景を題材にした造形表現は生み出されている。ただし、それらは「風景画」という範疇を超えて、絵画のみならず、写真、立体、あるいはインスタレーション、映像といった多様な表現方法によって表される。現代の表現者が選択する表現手段と、風景の解釈や風景へのまなざしそれ自体が、現代を、過去と区別させるものであり、この現代と過去の違いを通して、今という時代を探ることができるのではないだろうか。収蔵庫や展覧会場で、古今東西の風景画を目にする経験が積みかさなるにつれ、「今、この時代の風景表現を探ってみたい」という思いが、頭の中を繰り返しよぎるようになった。来年秋に開催を予定している展覧会「現代の風景(仮称)」は、このような、企画者の疑問と意図を出発点にしている。


■現代の感性

ところで、われわれは今どのような時代に生きているのであろうか?衛星放送で、地球の裏側から流れる外国のニュース番組の映像が、仕事を終え、地方都市のありふれた住宅でくつろぐ茶の間に、なにげなく飛び込んでくる。メールを使えば、国内外を問わず、遠くの地に住む友人たちと、直接会う事はなくとも、距離の遠さを感じることなく繋がっていられる。そうかと思えば、親戚の小学生の話では、放課後は、野原や空き地を駆け回ることもなく、友達の家に集まり円陣を組んで座りこむと、互いに会話もせず小さい液晶画面に向かい個々にゲームに励むのだという。この場合、彼らは、体を寄せ合って一人ではないということを確認しあいながら、架空の世界を遊んでいるのだ。架空の空間が広がるゲーム機の小さな液晶画面、コンピュータのモニターやテレビから流れるデジタル映像、メールというコミュニケーションのツールを通して世界と繋がっている。現代のわれわれの五感は、21世紀を迎えた数年前と比べても、知らず知らずの間に、しかし驚くべきスピードで変化しているのだろう。

こうした日常の感覚の変化に加えて、交通網の発達や、インターネットの普及によって旅や移動が飛躍的に容易になった。インターネットを使えば、格安のニューヨークまでの切符が簡単に手に入り、ヨーロッパの小さな島のバスの運行時刻まで調べることができる時代だ。頻繁に場を移動する人々の意識においては、「静岡」、「日本」、「アジア」といったフレームは緩やかになり、さまざまな人や物、情報が自在に行き交い、混交する時代。われわれは今、そういう時代に生きている。


■現代アートをとりまく今の状況

こうした時代に生きるわれわれの現代の表現行為の特徴を読み解くにあたっては、1960年代以降に造形芸術における表現の根源的な見直しが行われたことは、頭に入れておく必要があるだろう。1960年代にはハプニング、環境芸術と呼ばれる視覚芸術に収まらない表現方法が現れ、やがて、その考え方は、ドナルド・ジャッドがミニマリズムを生み、ジョセフ・コスースがコンセプチュアル・アートを生み出す土壌を作った。また、ベッヒャー夫妻に始まるドイツの現代写真や、ナムジュン・パイクが発表したビデオアートは、写真や映像を、現代美術の領域に取り込む端緒を築いた。1960年代以降、現代美術の領域で扱われる表現の幅が大幅に拡張したことによって、絵画表現そのものも問い直しを迫られ、それ以前の抽象か具象かという問いは、以前ほど大きな意味をなさなくなり、四角いキャンヴァスに油絵の具やアクリル絵の具で描かれたものだけが絵画でなく、多様な素材、多様な支持体が用いられるようになった。フランク・ステラのように変形した支持体を用いる者もいれば、ゲルハルト・リヒターのように、写真による絵画の死を前提に、写真の上から絵の具でペイントしたり、写真のイメージを、わざとブレたように絵画に写すことを表現手段とするものもあらわれた。

こうした60年代以降展開した芸術表現手段の拡張や根源的な見直しに加え、20世紀末以降の、世界を取り巻く社会構造の変化もまた、現代の表現を特徴付ける重要な要因となっている。

1989年にベルリンの壁が崩壊し、冷戦構造が終息した90年代以降には、欧米以外の多数の地域からさまざまに異なる歴史的文脈で制作された作品が、現代アートの世界に入り込んだ。もはや美術は欧米を中心にして、周縁に広がってゆくという、19世紀後半から20世紀後半まで続いたヒエラルキーが無効になり、まさに現代のような中心を喪失した、多文化主義の時代には、たとえば、村上隆が打ち出す、日本の伝統的造形表現に根ざす、平面性や正面観の特殊性を強調した造形や、これまで西洋的美術史観の範疇では純粋芸術として扱われることがなかったマンガやアニメーション、あるいはフィギュアといったサブカルチャーを参照した造形表現が、西洋にはない、日本発アートとして世界的な美術の文脈で取り上げられ評価されるようになってきている。日本人アーティストの作品が、アートマーケットのグローバルな市場で当たり前のように取引されるようになっていることも、10年ほど前には考えられないことである。

現在、来年の展覧会に向けて、作家の選定と調査を行っている。今回、具体的な例を挙げて語ることはできなかったが、「現代の風景」を読み取るためには、このような今を生きるわれわれを取り囲むあらゆる現象、あらゆる変化を視野に入れる必要があると考えている。

(かわたに しょうこ 当館学芸員)




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