ヘッダー1

 

●研究ノート
石田徹也の作品について −逡巡する自我像

堀切正人


石田徹也は、1973年に静岡県焼津市に生まれた若手画家である。武蔵野美術大学を卒業後、数々のコンクールで受賞するなど、新進気鋭の画家として注目された。しかし2005年5月に東京町田付近で踏切事故にあい、31歳の若さで帰らぬ人となった。2006年9月、NHKテレビ「新日曜美術館」の本編で紹介されてから、若者を中心に大きな反響が巻き起こり、画集が増刷を重ね、回顧展やグループ展も立て続けに開催されている。当館では、今年7月24日から8月19日にかけて「石田徹也−悲しみのキャンバス」展を開催し、13,500人を越える来場者を記録した。本展は、石田徹也が短い生涯にのこした作品の大半にあたる約150点と構想ノートなどを展示し、彼の画業や思想を総覧する好機であった。本小論では、石田作品の特性を考え、現在の若者たちの心を共振させる理由を推測してみたい。


「石田徹也−悲しみのキャンバス」展会場風景

石田徹也は、幼少より社会的なテーマに関心が強かったようである。11歳のときに、公募の人権啓発マンガ展で最優秀賞を受賞し、「弱いものいじめはやめよう」と描いた。ご遺族のお話によると、そのころよく「社会に役立つ人間になりたい」と言っていたという。また第五福龍丸の事件とベン・シャーンの影響も見過ごせない。「焼津市に育ったので、第五福竜丸をとおして、ベン・シャーンのような絵描きになりたいと思っていた」という書き込みが、構想ノート(1996年頃か)に見られる。ベン・シャーンが第五福龍丸の事件をテーマに描いた連作「ラッキー・ドラゴン」を石田徹也も画集などで見ていた。社会の不正と個人の尊厳。そして絵筆を通して世界へ訴えかける画家。ベン・シャーンからは強い影響を受けたと思われる。
もちろんベン・シャーンも、特定の社会事件ばかりに取材していたわけではなく、普通は、市井の人々を共感を持って描いていた。石田徹也も、社会の中で生きる個人を描くことが逆に社会を問うような絵を描いていくこととなる。年不詳の構想ノートに次の書き込みがある。「聖者のような芸術家に強くひかれる。〈一筆一筆置くたびに、世界が救われていく〉と本気で信じたり、〈羊の顔の中に全人類の痛みを聞く〉ことのできる人達のことだ」。石田徹也の作品を根底で支えているのは、こうした社会貢献への純粋で一途な想いであることを、まずは確認しておきたい。

ベン・シャーンと違うのは、石田徹也の描く人物たちは、弱々しく、悲しんでいることだ。「僕が強く感じることのできるのは、人の痛み、苦しみ、悲しみ、不安感、孤独感などなどで、そういったものを自分の中で消化し、独自の方法で見せていきたい」。「弱い自分を、ギャグやユーモアで笑えるものにしようとした。(中略)見る人によっては、風刺や皮肉と受けと止められることもあった」。「自分も環境をあまり選べない。なじむには、自分を変化させなければならないし、拒むと恐怖や孤独、不安を感じさせられる。不安感を表現しようとすると、冷たい都市的な情況を考える。しかし、それは、人間のつくりだしたものでもあるし、拒めないことがわかっているので、ギャグ、自嘲、皮肉などで情況を受けいれられるものにしたい」。こうして、社会的抑圧の象徴を体そのもので受け入れ、あげくに合体してしまった、泣くに泣けない、もう笑うしかない状態の人物たちが描かれることになる。石田徹也はこうした合体人間のネタ作りに日々励んでいて、構想ノートにはマンガのようなアイデアスケッチが無数に描かれている。

しかし、ここで言うギャグやユーモアを誤解してはいけない。「僕の求めている(今)ものは、苦悩の表現だったりするのだが、それが自己れんびんに終わるような、暗いものではなくて、他人の目を意識した(他人に見られて、理解されることで存在するような)ものだ。自分と他人の間のかべを意識することは、説明過剰を生みだすが、そのテーマなり、メッセージが、肉声として表現されているならば、直情的にたたきつけた絵画よりも、ニュアンスにとんだコミュニケーションがとれるはずだ。僕の求めているのは、悩んでいる自分をみせびらかすことでなく、それを笑いとばす、ユーモアのようなものなのだ。ナンセンスへと近づくことだ。他人の中にある自分という存在を意識すれば、自分自身によって計られた重さは、意味がなくなる。そうだ、僕は他人にとって、10万人や20万人という多数の中の一人でしかないのだ。そのときに落たんするのではく、軽さを感じ取ること。それがユーモアだ」(引用者注:1997年3月以降)。このユーモアが自閉的な世界を一気に社会へ開く起爆剤となる。ギャグやユーモアが他者を呼び込む。市井の人の描写が社会を問う鏡となるのは、このときなのである。
だが、石田徹也の絵が、他人の中の自分、社会の中の自分という他者性をまとった自画像であるとして、そしてまた、他者があるから自我の確立もあるのであるならば、それならなぜ石田徹也の描く自画像は、自我を感じさせないのだろうか。繰り返し描かれる短髪の青年は、決して自己を主張しない。静かに悲しみ、痛み、そして耐え続けるばかりである。

ラカン風に言うならば、寸断された身体を統一し自我を確立するには、他者の中の自己を認めなければならず、それは同時に他者という鏡の仕組み、すなわち社会を受け入れることと同義なのである。しかし、もし社会がどうしょうもなく受け入れがたく、悲惨きわまりないならば、どうであろうか。自我はその歪み、狂い、割れた鏡の前で、逡巡するほかない。逆に言うならば、ためらう自我を描くことで、あまりに凄惨な社会を照らし出すこと、それが石田徹也の作品だったと言えるのではないだろうか。

石田徹也がこうしたスタイルを自分のものとしたことは、幸福であり、かつ不幸だったのかもしれない。絵画表現とは基本的に自己表現であり、絵画の完成は自己の実現であり、同時に社会の解釈である。石田徹也の絵画表現は、そのま逆である。描けど描けど、決して自己を実現させてはならない。それは、画家として志を立てた者にとって、どれほどの精神的葛藤を呼び起こしたことだろうか。


石田徹也《飛べなくなった人》1996年

自己と他者、そして社会との関係にとまどう感覚は、今日の若者たちの心に響くのであろう。展覧会場を訪れた多くの若者たちは、作品を食い入るように見つめながら、驚き、悲しみ、考え込みながら、しかし同時に笑みもこぼれるのだった。石田徹也が絵に込めたユーモアは、社会への回路を開き、受け入れ、変えていくために、機能しているように思えた。絵筆で社会を救うことを夢見た石田徹也の遺志は、しっかりと受け止められていると思う。

(付記)筆者は、石田徹也氏に生前2度ほどお会いしていますが、二言三言、交わしただけでした。そのため、本稿執筆にあたって石田家の皆様に、構想ノートの調査などご協力をいただきました。研究者にとっては作品、資料であっても、ご遺族にとっては大切な遺品にほかなりません。それらを快く拝見させていただいたことに厚く御礼申し上げます。
(付記2)本論は、「石田徹也−悲しみのキャンバス」展パンフレット(石田徹也展実行委員会・静岡県立美術館)p8-9に掲載した拙論「逡巡する自画像」に加筆したものです。

(ほりきり まさと 当館主任学芸員)




<< back | Next>>


来館者の声 ボランティア活動 友の会について 関連リンク
カタログ通信販売 前売り券のご案内 美術館ニュース「アマリリス」より 年報
TOP MENU

ロゴマーク Copyright (c) 2005 Shizuoka Prefectural Museum of Art
禁無断転載・複写