新収蔵品
2001年県立美術館収蔵作品
【西洋絵画】 |
アレクサンドル=イアサント・デュヌイ 1757-1841 | ![]() |
「パリ、マドレーヌ大通りの窓からの眺め」
1798-1805年 20×27 板、油彩 | |
デュヌイは、ナポレオンが権勢をふるった時代に、フランスとイタリアで活動した風景画家。この作品に描かれているのは、フランス大革命後のパリの眺めで、おそらくマドレーヌ大通りの高い窓からモンマルトルの丘を望んでいるのだろう。19世紀初頭のパリは、すでにヨーロッパ最大の都市となっていたが、市街は平地に留まりまだモンマルトルの丘の方には延びていなかった。屋根の傾きや高低、市街から丘・空への色調の変化には、デュヌイの鋭敏な観察眼と確かな描写力を見ることができる。 |
【日本画】 |
今村紫紅
1880-1916(明治13-大正5) | ![]() |
「宇津の山路」
1912(明治45)年 126.5×50.4 絹本着色 | |
紫紅は、小堀鞆音門下の研究会「紅児会」での活動や、文展への出品作で注目を集め、再興日本美術院には同人として参加、若手代表画家として活躍した。作風は、初期の大和絵的なものからおおらかな南画風へと変化を見せる。本作は、伊勢物語に取材し、在原業平が駿河国宇津の山路にさしかかった場面を描く。第18回紅児会展出品作。《近江八景図》、《熱国の巻》など、代表作を次々と生み出した充実期の作である。みずみずしい色彩や点描風の柔らかな筆遣いなど、紫紅の特色が存分に発揮されている。 |
司馬江漢
1747-1818(延享4-文政1) | ![]() |
「駿河湾富士遠望図」
1799(寛政11)年 36.2×100.9 絹本油彩 | |
江漢は江戸で活躍した洋風画家。天明3(1783)年には日本最初の銅版画制作に成功、また油絵も手がけるなど多数の洋風画を制作。特に日本風景を題材にした油絵に力量を示した。本作は駿州矢部の補陀落山(現在の清水市・鉄舟寺)より望んだ景観を絹地に描いた油絵。同地からの富士を江漢は好み、多くの類作を残したが、本作は人物などの細かな描写も見え、充実した出来ばえを示している。日本における初期油絵の作例として貴重である。洋画家・須田国太郎旧蔵作品。 |
【日本洋画】 |
川村清雄
1852-1934(嘉永5-昭和9) | ![]() |
「海底に遺る日清勇士の髑髏」
1899(明治32)年以前 42.5×81.0 板、漆絵 | |
深海の砂煙を巻きあげて、沈没した軍船を象徴する錨が海底に埋もれ、戦死した日清の軍人の頭蓋骨が相対する。敵対した勝者も敗者も死に面しては平等な人間だというヒューマニズムの表われである。また、日本には稀な「ヴァニタス画」(生のはかなさ)でもある。箱書きによれば、本作は友人・木村浩吉の依頼で描かれ、画面右上には、大伴家持の古歌を勝海舟が記している。それゆえ、川村の作品には珍しく、制作の経緯が明確で、発表当時人々に深い感銘を与えた作でもある。 |
石川欽一郎
1871-1945(明治4-昭和20) | ![]() |
「海辺(早川海岸)」
1935(昭和10)年頃 53.2×72.8 キャンバス、油彩 | |
水彩画家として知られる石川欽一郎の油彩画は、現在確認されるなかでは、台湾の個人コレクター所蔵のものと、当館所蔵の本作のみである。水彩画に見られる流麗な筆致に比べて、画面は全体的に重厚なマティエールに包まれている。師浅井忠が明治33年に渡欧したことで、彼の油彩画の本格的修業は半ば断念することとなった。本作は、台湾から帰国後、神奈川県・早川海岸を描いたものである。 |
石川欽一郎
1871-1945(明治4-昭和20) | ![]() |
「銚子港(利根川付近)」
1939(昭和14)年頃 38.0×45.0 紙、水彩 | |
千葉・銚子港を描いた作品。昭和14年に開催された大阪美交社主催「石川欽一郎画伯水彩画近作展」には、《銚子港(利根川河口)》という作品が出品されており、本作もこの時期に制作されたと考えられる。画面は、青を主調とする伸びやかな筆致で捉えられ、水平線を画面のほぼ中央に置き、水と空を強調して描いており、前景に配された船は大海原に浮かぶ。二度の台湾滞在を経て、色彩はより鮮明になり、東洋趣味の墨色サインと朱の印が特徴的である。 |
吉田博 1876-1950(明治9-昭和25) | ![]() |
「日光・荒沢」
1896(明治29)年頃 51.2×29.7 紙、水彩 | |
吉田博が小山正太郎の主宰する「不同舎」に入門するのは、明治27年7月2日のことである。小山の「タンダ一本の線」で描くようにという、徹底した正確な写生に対する態度から、不同舎の門人たちの素描には、輪郭線によってモティーフを捉え、ハッチングで陰影や強弱を付けるという共通の作風がみられる。正確な鉛筆デッサンをした後、制作された本作にも、水彩画ではあるが、そうした特徴が現れており、この時期に制作された作品と考えられる。 |
曽宮一念 1893-1994(明治26-平成6) |
「麦畑(デッサン)」 1940(昭和15)年頃 25.8×36.3 紙、印刷 |
和田英作
1874-1959(明治7-昭和34) | |
「写生帖(天竜川)」
1909(明治42) 10.6×18.0 紙、鉛筆 | 「写生帖(三保の富士)」
1911(明治44)年 12.6×17.6 紙、鉛筆 |
「写生帖(天女)」
28.0×18.4 紙、水彩 | 「写生帖(三保の富士)」
1916(大正5)年 11.0×18.0 紙、水彩 |
「写生帖(富士(佐野))」
1920(大正9)年 10.6×35.2 紙、水彩 | 「写生帖(富士連作4点)」
1920(大正9)年 各18.0×27.0 紙、水彩 |
「写生帖(富士(河口湖))」
1933(昭和8)年 28.6×24.4 紙、鉛筆 | 「写生帖(逢妻河畔)」
1945(昭和20)年 23.2×31.9 紙、鉛筆 |
「写生帖(奈良)」
1942(昭和17)年 21.0×30.0 紙、鉛筆 | 「写生帖(富士(吉田))」
1937(昭和12)年 13.9×36.6 紙、鉛筆 |
「写生帖(富士)」
1920(大正9)年頃 23.5×17.1 紙、水彩 | 「スケッチ(天女)」
1915(大正4)年頃 115.8×76.4 紙、鉛筆 |
「下絵(天女)」
1915(大正4)年頃 133.8×76.6 紙、水墨 | 「下絵(松林)」
67.4×101.4 紙、水彩 |
「下絵(松林)」
67.4×77.0 紙、水彩 | 「雑誌 表紙(婦女界 3枚、新小説
3枚、文芸倶楽部 1枚、学灯 3枚、ハガキ文学 1枚、ほとゝぎす 1枚、その他 3枚)」 年代多数 |
『和田英作編 鉛筆画教科書 一』
1904(明治37)年 27.5×19.3 | 『和田英作編
鉛筆画教科書 二』 1904(明治37)年 27.5×19.3 |
「写真」
年代多数 | 「パリ万国博覧会表彰状」 1900(明治33)年4月 59.0×75.0 リトグラフ、紙 |
「一枚もの写生」
紙、鉛筆 |
和田英作は、富士を描きたいという希望から、明治26年8月12日、清水市三保に住居とアトリエを構え、以後終生の居とした。ここで、和田は富士をはじめとして、この地に伝わる「羽衣伝説」、自宅の庭で栽培していた「薔薇」など、自然を情感あふれる画風で描いた。遺された写生帖には、見る方向と時間帯によって様々に微妙に表情を変える富士、望みながらも完成には至らなかった「三保松原と羽衣天女」の図などが描かれており、日本的洋画の完成を目指した後期の活動を知る上で貴重な資料といえる。 |
【戦後美術】 |
篠原有司男
1932-(昭和7-) |
「次郎長バー」
1985(昭和62) 172×255×45 カードボード・プラスティック・アクリル・ポリエステル樹脂・鏡ほか |
清水ゆかりの次郎長が刀片手に豪快にお酒を飲む場面に窓から怪物が乱入。立ち向かうワンダーウーマンの手にはピストル、足許には生首が転がる。酒ビンやダンボール、鏡、タイルなど、生活の端々にころがるガラクタが材料となり、次郎長の粋な雰囲気と、作者が暮すニューヨークの雑多な街とが渾然一体となったような賑やかさだ。作者の篠原有司男は1960年に当時の芸術や社会に反旗を翻した美術運動の一つ「ネオ・ダダ・オルガナイザーズ」を結成し、それまでには考えられなかったようなやり方で日常生活の一場面を切り取る独特な作品を作り出した。1969年に渡米以来、ニューヨークを拠点に旺盛な活動を続けている。 |
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