彫刻の制作には大規模な空間と設備が必要である。成功した作家ほど、作品の数や大きさ、注文の多さに応じたアトリエを持つことができた。 ロダンが初めてアトリエを構えたのは、パリのル・ブラン街の馬小屋で、隙間風の吹くこの建物は住居も兼ねていた。《地獄の門》の制作を国から依頼された1880年に、ロダンはユニヴェルシテ街182番地の国有の大理石置場にアトリエをもらった。これは、公の発注を受けて制作する場合の習慣で、ロダンはこのアトリエを亡くなるまで保持した。その後の成功に伴い、複数のアトリエっを同時に維持したヶ、1895年にパリ郊外のムードンにヴィラ・デ・ブリヤンを購入してえからは、ここが晩年のロダンの住居にも、また、主要なアトリエの本拠ともなった。現在ヴィラ・デ・ブリヤンは、主に石膏像っを収蔵するロダン美術館の分館となっており、夏季の週末に公開されている。
ロダンは、1887年10月から翌年の1月にかけて、出版社主ポール・ガリマールが所有する『悪の華』の初版本に直筆の挿絵を描いた。『悪の華』は、フランスの詩人・批評家のボードレールが近代生活の憂愁を謳った代表的な詩集で、退廃的かつ官能的な美しさと宗教的神秘館に満ちた作品である。 ただ一人の愛好家のために、しかも人目にふれない仕事をすることには乗り気でなかったロダンだが、結局27点のデッサンを制作した。直接会う機会はなかったにしろ、ロダンはボードレールと共通する世界観を持っており、ロダンの施した挿絵は、当時あまりに文学的すぎると評された。 ロダンの死後1918年になって、そのデッサンは複写で200部刷られ、以後3度にわたって増刷を重ねた。
ロダンの美術品収集は、経済的に余裕の出てきた1890年代から始まった。その範囲は非常に幅広く、古代エジプト、古代ギリシア・ローマのレリーフや彫像、壺などから、同時代のウジューヌ・カリエール、ルノワール、モネ、ファン・ゴッホらの油彩画にまで及んでいた。収集家としてのロダンの特色は、単なるコレクターの域にとどまらなかったことである。コレクションを自邸に展示するだけではなく、古美術品を自分の作品と組み合わせて、新たなアッサンブラージュを生み出した。 また、19世紀後半のジャポニズム(日本趣味)の波はロダンにも及び、浮世絵、陶磁器、根付などの美術工芸品を買い求めたほか、ロダンの収集癖を知る知人などからもプレゼントされた。浮世絵などの日本の版画作品は、晩年のロダンの素描に影響を与え、発展させるきっかけともなた。
パリのロダン美術館には、7,000点以上のデッサンが所蔵されており、彫刻家として知られるロダンの別の側面を見せてくれる。普通、デッサン(素描)は絵画や彫刻を制作する際の構想や下準備と捉えることができるが、ロダンの場合は異なっている。すなわち、現存する素描のうち、彫刻と直接関連するものがきわめて少ないという事実から、ロダンにおける素描は必ずしも彫刻の前段階として制作されるものではなく、また彫刻に従属するものでもなかったことが分かる。
ロダンの美術教育は、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に対していわゆるプティ・テコール(小校)と呼ばれた帝国素描・算数専門学校に入学した14歳の頃に始まる。この学校は現在の国立高等装飾美術学校の前身であり、18世紀風の職人的な教育伝統を保っていた。ここでロダンは、オラス・ルコック・ド・ボワボードランと画家のジャン=イレール・ベロックの授業を受けた。生身のモデルと、目による記憶という素描の訓練によって、デッサンでブロンズ賞を受賞した後、彫刻家ルイ=ピエール=ギュスターヴ・フォールのクラスに入り、彫刻を学び始める。17歳でプティ・テコールを退学し、エコール・デ・ボザール入学を志したが、3度受験しながら不合格だった。