ヘッダー(ロダン)
ロダン 鑑賞の手引き
AUGUSTE RODIN Guide book

もっとロダンを知るためのキーワード 2

Key word F-K

F:映画 film

 1915年から16年ころ、俳優であり劇作家でもあるサッシャ・ギトリが監督した映画「我々の同時代人 Le gens chez nous」にロダンは出演したという。この映画は、当時の様々な芸術家のシーンをいろいろ集めたもので、女優サラ・ベルナールや、画家ルノワール、モネに混じって、ロダンも出演した。当時の住まいだったオテル・ビロンで、ロダンが大理石の≪プシュケーとゼフィール≫を制作している場面が4分間ほど映っているという。


G:版画 gravure

 その生涯の中で、ロダンは20点ほどの版画を制作した。数ある版画技法のうち、ロダンが関わったものは、銅版画の一種のドライポイントとリトグラフ(石版画)である。    
 1881年の夏に初めてイギリスへ旅行した際、ロダンはロンドンでアルフォンス・ルグロに銅版画の手ほどきをうけた。《世界を導くキューピッドたち》はドライポイントによる最初の作例で、おそらくルグロのアトリエで制作された。この技法は、先の硬い針で銅版に直接描くため、感情の赴くままに即興性を強みとして制作することができる。
 1899年には、オクターブ・ミルボーの『拷問の庭』の初版に扉絵のための素描を描き、それをオ−ギュスト・クロがリトグラフにした。この本が評判を呼んだことから、同じ年に別の出版社から第2版を出す契約が交わされた。3年後、ロダンの素描20点に基づくクロのリトグラフをつけた挿絵本『拷問の庭』の第2版が出版された。


オーギュスト ・ロダン《世界を導くキューピッドたち》1881年 静岡県立美術館

オクターヴ・ミルボー『拷問の庭』
1902年 個人蔵

H:オテル・ビロン hôtel Biron

 パリ市内のヴァレンヌ街77番地にあるオテル・ビロンは、ロダン晩年のアトリエ兼住居であり、現在ロダン美術館となっている建物の呼称である。1730年に建設されたロカイユ様式の美しい建物で、ルイ15世の元帥ビロン公爵に名前の由来がある。ロダンはパリ郊外のムードンに住み続けながら、リルケの勧めに従って、ここに居を構えた。この建物は、19世紀の初めにはイエズス聖心会の修道院と寄宿学校だったが、ロダンが入居した頃には、リルケのほか、コクトーやマティス、舞踊家イサドラ・ダンカンら芸術家が利用するアパルトマンになっていた
 亡くなる前年の1916年、ロダンは3回にわたって、国家にすべての財産と文化資産に含まれる権利を譲渡した。同年オテル・ビロンとその庭園にロダン美術館を設置することが決定され、1919年にロダン美術館が開館した。


I:イタリア Italie

 イタリアで古代とルネサンス芸術の息吹にふれることは、多くの芸術家が見た夢だが、ロダンも例外ではなかった。1875年の末にベルギーを発ったロダンは、1876年3月ころまでイタリアに滞在し、トリノ、ジェノヴァ、ピサ、ローマ、ナポリ、そしてフィレンツェを訪れた。この時からミケランジェロとダンテというふたりの巨人は、ロダンにとって絶対的な存在となった。ローマから、ブリュッセルで留守を預かる妻のローズに宛てた書簡の中で、ロダンはミケランジェロについて触れている。フィレンツェのメディチ家礼拝堂にあるミケランジェロ作の《聖母子像》と寓意像をロダンは模写しているが、これらは稀なデッサンである。というのも、ダンテとミケランジェロは、生涯を通じてロダン作品の主題と手法に影響を及ぼしたが、模写は滅多に行われなかったからである。


オーギュスト ・ロダン
《ミケランジェロ〈昼〉の模写》
1887年頃? ロダン美術館

オーギュスト ・ロダン
《ミケランジェロ〈夜〉の模写》
1887年頃? ロダン美術館

J:日本 Japon

 日本の近代美術史において、ロダンへの賛美と憧れを巡るエピソードには事欠かない。その芸術は、日本近代を代表する彫刻家である荻原守衛や高村光太郎に多大な影響を与えた。ロダンへの傾倒は文学界にも見られ、1910年にはロダンの70歳の誕生日を記念した『白樺・ロダン号』が刊行された。翌年、雑誌『白樺』の同人たちは、ロダンに北斎や広重などの浮世絵30点を贈呈し、喜んだロダンは返礼に、自作のブロンズの小品3点を寄贈した。以後、明治末期ころから始まった愛好家によるロダン作品収集は、大正期にますます盛んになった。松方幸次郎によるロダン作品の一大コレクションが形成されたのも、この時期である。また、ロダン作品の紹介も、白樺主催の展覧会や、フランス人画商エルマン・デルスニスが主催した「仏蘭西現代美術展」において広く行われた。


喜多川歌麿
《当時全盛美人揃 玉屋内小紫こてふ はる次》
1794年 ロダン美術館

K:アルベール・カーン Albert KAHN (1860-1940年)

 ロダンの交友範囲は実に幅広かった。銀行家のアルベール・カーンは、極東のコレクションの大家としても著名だった。極東の中でも特に日本贔屓で、エミール・ギメとともに日本を訪れたこともあり、1898年には日本への旅を可能にする「国際奨学金」を創設した。ロダンとは何度か旅をともにするほどの仲で、自分の極東への旅行写真を贈っている。また銀行家としては、1900年のアルマ広場での大回顧展の際に、展覧会を財政的に支援した3人の銀行家の一人として名を連ねた。


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