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研究ノート
名所絵から東海道屏風へ−金色の道をたどって−
飯田 真

 2001年秋、東海道宿駅制度400年を記念し、東海道を主題とした絵画を集めた「描かれた東海道展」(註1)を当館で開催した。その中で、「東海道屏風の世界」というコーナーを設け、「東海道屏風」の作例を数点紹介した。江戸から京都までの各宿場と周辺の景観を、金雲などを交えた一双の画面に構成した華やかな屏風で、江戸初期に生まれ新たな画題として隆盛をみたものである。しかし、「東海道屏風」については絵画史分野での先行研究がほとんどないため、その展開や様式的変遷など詳細なことについて論及することはできなかった。

 最近、別の「東海道屏風」を調査する機会に恵まれ、再び「東海道屏風」の展開、特にその発生に関する問題に着目してみた、結果として、展覧会開催時に考えた推論を追認するようであるが、ここで整理しておきたい。
展覧会では、「東海道屏風」に先行するものとして、富士三保松原を主題にした次の3点の作品を展示した。
(1)富士三保松原図屏風 室町時代 個人蔵
 この画題による一双屏風は、近世以降、数多く見られ、名所屏風の好画題であったが、本作は、現存最古の屏風で、画面には遊山にでかける侍女連れの婦女、巡礼の旅人も見え、旅の風俗が街道とともに描かれる。
(2)東海這往来図屏風 室町時代後期−桃山時代(16世紀中頃−後半)
  奈良県立美術館

 「富士三保松原図」の画題を一隻で構成したものと思われるが、特徴的であるのは前景に描かれた、街道を行き交う旅人や宿場の様子、あるいは舟遊びなどの風俗表現である。風景描写、人物描写などに、室町後期(16世紀中頃)の大和絵系作品と様式的類似が認められる古様な屏風で、宿駅制度制定前の東海道の様子が伺える資料としても貴重である。名所絵と風俗図が融合した不思議な画趣をしめす。
(3)三保松原図屏風(三保松原・厳島図屏風のうち)江戸初期(17世紀中頃)
 静岡県立美術館(図1)

 三保松原・富士山など駿河国の名所を描いた屏風。画面を蛇行するように東海道が描かれ、江尻(現清水市)の町並み、名刹として名高い清見寺、難所として知られる薩陀峠など街道沿いの名所を旅人の姿を交えて描く。描法から寛永〜寛文初年(1624−61)頃の制作と考えられる。風俗図の要素が強まった江戸初期の員重な名所図のひとつであり、後に隆盛する東海道屏風を予見する。

 これら3点は「東海道屏風」発生を考える上で興味深い。すなわち、本来、歌に詠まれた名所のイメージを伝える「名所絵」に、現実の風俗表現を取り込もうとする動きが生まれ、富士三保松原図のように東海道を包含する「名所絵」においては、街道が旅人とともに描かれることとなった。作品の中には風俗への興味が名所イメージを超越してしまったものも生まれた。

 さらに、東海道が整備された後には、絵師の関心は街道の空問的な広がりにおよんだ。(3)三保松原図屏風では、三保松原と富士の他に、駿府城・久能山東照宮・江尻の町並み、清見寺・薩陀峠など富士川に至る近隣の名所を加え、かなり広範囲な場所を対象としている。しかも、それらを結ぶ東海道が金箔で強調されるように描かれているのである。このような名所絵の動向が、調査に基づく詳細な街道図(絵巻など)がつくられる機運と重なり生まれたのが「東海道屏風」と考えられる。

 さて、最近調査の機会を得た「東海道屏風」(註2)であるが、右隻右上に江戸城を配し、東海道各地の城や寺、関所や宿場などを六曲一双の画面に二段で描き込んでいる。大津市歴史博物館や東京国立博物館に所蔵される作品とほぼ同図様で、初期に隆盛した東海道屏風の典型的な構成をもつ。宿場の店先の様子などが人物とともに精緻に描かれており、風俗への興味の強さをうかがわせる。「東海道屏風」が隆盛したのは、菱川師宣が《東海道分間絵図》を版行した元禄3年(1690)頃と現時点で考えているが、本作もこれからあまり時を経ない時期の制作であるとみたい。

 さて、本図で注目したいのは金砂子がはかれ、装飾的に描かれた街道の表現である。他の作例でも同様の表現は多いが、本作は保存がよいせいか、一層華やかに際立って見える。はじめ本作を写真で見た時にすぐに思い浮かんだのは、金泥で東海道を表現した(3)の三保松原図屏風であった。道の表現から受ける全体の印象に類似性があるためである。東海道屏風で富士山と三保松原は左隻(図2)の右上に配されるが、その部分と三保松原図屏風を比較すると、富士山と三保松原の間に駿府城・清見寺から薩陀峠の難所を抜け富士川に至る東海道を描く構成が似ているのは地理的な位置関係から当然ともいえようが、道が蛇行する形状や金雲の効果の類似も相侯って、両作が全く無縁のものとは考えにくいほど近似していることが認められる。もちろん、直接の影響関係を確認することは難しいが、「東海道屏風」が問違いなく、こうした名所絵を下敷きに生まれたことが確認できるだろう。

 以上、名所絵が変容し「東海道屏風」に発展した例をしめしたが、そもそも「東海道屏風」とは街道が整備されてはじめて生まれた絵画である。すなわち、東海道が江戸から京都までの幹線道として認知され、その全貌を描いた絵画を見たいとする需要が生まれたためである。おそらく飛行機によって地球が狭くなったと感じる現代人のように、江戸・京都間の距離をいっそう身近に感じた新たな時代の人が生み出した産物である。その新たな絵画に、伝統の名所絵が生かされたのは、名所絵が日本の風景表現にいかに根付いていたかをあらためて認識させられると同時に、類型化、定型化の傾向に陥りやすい名所絵が、時代によって自由に変容し応用されるだけの奥深さ、柔軟さを併せ持っていたことも指摘しておきたい。

(当館主任学芸員)
(図1)三保松原図屏風(三保松原・厳島図屏風のうち) 静岡県立美術館
(図2)東海道屏風 左隻 京都・個人蔵

(註1)「描かれた東海道」展2001年10月16日−11月25日 静岡県立美術館
(註2)東海道屏風 六曲一双 紙本着色 江戸初期(17世紀)
    (各)94.4×277.8cm 京都・個人蔵



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