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研究ノート
黒川翠山の写真 ― ピクトリアリズムから記録写真へ―
堀切正人

 黒川翠山(すいざん) (1882−1944 京都生)は、明治後期から大正期にかけて多く登場した「好事写真家」の一人である。それまで写真師だけのものだった写真技術が、機材の改良などの結果、誰でも比較的簡単に扱えるようになったことから、いわゆるアマチュア写真家が多く輩出したのである。彼等は、写真を芸術たらしめんとして、「芸術写真」を謳った。その手法として隆盛したのが、絵画に表現の範を求めたピクトリアリズム(絵画主義)と呼ばれる動向である。静岡県立美術館には、黒川翠山が撮影した富士山の写真プリント、およびガラス乾版が多数、収蔵されている。田子浦など富士眺望の名所を選び、手前に人物や樹木を大きく写しこみ、遠方に富士が霞む構図を取る。演出された人物のポーズを点景として写し込むことも多い。落款を入れたり、裏面に和歌を添えたりする日本趣味とあわせて、翠山が名所図会を念頭に富士山を撮影したことは、まず、まちがいないだろう(注1)。

 だが、翠山の富士山写真を眺めていると、そのような絵づくりの作意を見ることはあっても、何かしら底意のない、冷静な眼もうかがうことができるのである。と言うのも、「芸術写真」を特徴づける写真技法、例えばピグメント印画法やソフトフォーカス技法などが、翠山の作品にはほとんど見られないからである(注2)。翠山の絵づくりは、写真撮影の基本どおり、構図を決め、人物にポーズをつけ、露出と絞りを調整して撮影するだけである。そして、それをごく平凡な銀塩プリントで印画する。それゆえ一口にピクトリアリズムと言っても、ともに関西で活躍した米谷紅浪や、時代は少し下るが、有名な福原信三、路草の作品とは、そうとう印象が異なるのだ。

 これを、前時代的なものとか、アマチュアリズムと見なすことは簡単である。初期「芸術写真」は、明治後期に隆盛した水彩画運動と深い関係があったので(注3)、翠山の自然に対する感性は、その域内のものだったとも言えよう。だが翠山の眼差しには、写真という表現形式自体への冷静な感覚があったようにも思えるのだ。翠山は、1906(明治39)年、《雨後》が戦捷紀念博覧会で名誉銀牌を受賞して、世に知られるようになった。そのころから、雑誌『写真例題集』や『写真界』、次いで『太陽』の写真懸賞に盛んに応募し、それらの誌面に多くの作品を発表した。『写真例題集』第36巻(明治39年12月15日発行)掲載の《夕雲》は、手前に配した冬枯れの樹枝が、繊細なシルエットで浮かび上がっている。第44巻(明治40年4月15日発行)の《瀬田川》も同様で、絞りを絞って適正な露出で撮る、基本的な撮影技術の確かさを裏付ける作品である。

 面白いのは、『写真例題集』は写真とともに、それらの作品に対する批評も募集して掲載していたことである。翠山作品の批評には、「原板の強さ」といった表現で、翠山の撮影技術の高さに言及したものが多い(ここで言う原板とは、印画の対概念である)。しかし、それは同時に批判の対象ともなっており、例えば「樹枝徒に繊細にして樹に詩趣なく」(第38巻)とか、「前景の竹林等細かに写りしは技術を示せしものか、余は不知画としては前景に混雑せしもの無き方却って面白からんか」(第46巻)とある。ちなみに後者の評は、水彩画家、丸山晩霞によるものである。

 こうした批評を意識しつつ、翠山は写真を応募していたようだ。例えば「徒に繊細」と言われた《夕雲》の次に発表した《夜の東寺》や《雨後》(第43巻)は、同様に繊細な樹枝のシルエットを見せるものだが、《雨後》では、傘を背に後ろ向きに立つ人物を添えている。また《朝日かげ》(第44巻)は明暗のコントラストが強い林の中に、幼児を背負った少年を横向きに立たせる演出をし、《夕凪ぎ》(第45巻)も日陰になっている崖の細部をうまく写し撮りながら、舟の舳先に漁師をこちら向きに立たせている。これらは撮影技術を誇示しつつ、さらに詩情を加味して見せようとする工夫のあとだろう。これらへの批評は、《雨後》については、水彩画家、大下藤次郎が「稍片付過ている図取であるが、見た心持は悪くない、人物が直立しているのは困る、モット端の真中の方へやって、小さくしたらよくはあるまいか、絵の方でも添景人物は実にムヅカシイもので、格好よく適所にハメるのは多くの熟練を要するのである」と述べ、《朝日かげ》に対しては丸山晩霞が、線の美、光の濃淡を誉めつつも「只人物の姿勢が(立っておいで)という趣きあるは遺憾」と難じている(第45巻)。

 次いで翠山は、花を摘む少女2人を大きく写した《つみ草》(図2)を発表するが(第46巻)、「モデル的に見へるのは遺憾」「人間の剥製」「少女もヨー命令に服従しておますさかへ褒めてやらはったらどーどす」と散々であった。そのためか、翠山は再び風景写真に戻り、人物は入れても点景とするに留めるようになる。《朝の小川》(図3)(第59巻)は、以前の名誉銀牌受賞の《雨後》によく似た、霧に煙る河畔の景色である。絞り開放で、意図的にソフトフォーカス調で撮影しているものだが、「雅趣に富める」「結構な絵である」(大下)「最優等写真なり」「偖も風情ある景色かな(中略)一点の批難すべき無し」「これは実に見事に見受申候」「最近の例題集を壓するの傑作である否水彩画以上の作である」など絶賛されている(第60巻)。

 こうした作品と批評とのやり取りは、何を物語っているのだろう。 留意したいのは、写真家、批評家の双方とも、写真の演出ということを十分自覚していて、その上で表現の良し悪しを見ようとする姿勢である。翠山は人物の演出には、きわめて意識的だったし、またシャープにもソフトにも撮れる技術を持っていた。つまり翠山は、現像や印画の操作に依らずとも、基本的な撮影技術だけで、十分に絵づくりができることを知っていたのである。このことは、裏返すならば、写真という表現手段が根本的に持っている虚構性を明らかにしている。無作為に撮ったスナップ写真が、必ずしも被写体の真実を写し取るとは限らない。逆に計算され、演出された写真が、物事の本質をよりわかりやすく伝えることもあろう。そうした「ウソ」を前提として、写真の表現は、とりわけ「芸術」的な表現は成り立つことを、翠山は評者とのやりとりの中で確認していたのではないだろうか。虚構性は、あるメディアが「芸術」たらんとする過程のなかで、不可避の命題なのである。

 静岡県立美術館が収蔵する翠山の富士山写真は、多くに、やはり演出された人物が添えられている。しかし、清水、御厨、白糸滝、富士五湖など、様々な地点から執拗に富士に迫ろうとする姿勢には、あらゆる角度から被写体を検証しつくそうとでもするかのような、冷静な観察眼も感じられるのだ。翠山はこの後、京都の風景や、金閣寺などを写しつづけた。これらは、今日、貴重な記録写真でもあるのだが、翠山がそのような写真へ向かったのは、初期の活動から、写真のもつ本質的な虚構性を十分に自覚していたからこそ、とは考えられないだろうか。
(当館学芸員)

(図1)
黒川翠山《題名不詳(長尾峠からの富士山)》
制作年不詳 ゼラチン・シルバー・プリント
静岡県立美術館蔵
(図2)
黒川翠山《つみ草》『写真例題集』第46巻
(明治40年5月15日発行)掲載

(図3)
黒川翠山《朝の小川》
『写真例題集』第59巻
(明治40年12月1日発行)掲載

(注1) 拙論「黒川翠山の富士山写真」『富士山の絵画』(図録) 静岡県立美術館
2004年 p.52-3
(注2) 佐藤守弘「ピクチャリング・キョウト:観光と視覚文化#2  二、〈過去〉
としての京都−『太陽』と黒川翠山」『diatxt』no.10 京都芸術センター
2003年7 月 p.150
(注3) 飯沢耕太郎『「芸術写真」とその時代』筑摩書房
1986年  p.14-23

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