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●研究ノート
ピラネージ作
《サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂のクラウディウス神殿遺構》
第2版の制作年代および改版の意図について
新田建史

 18世紀にローマで活躍した版画家、建築家、そして考古学者だったジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(1720−1778)の『ローマの景観』("Vedute di Roma")連作は、彼の最大のヒット作である。1747年頃から※1生涯に亘って描き続けたこの景観画の連作は、総点数135点を数える。約40×55cmという大型の銅版に主題となる建築物を描き、画面下部に何らかの詞書用のスペースを取り、説明文を添えてある。静岡県立美術館に所蔵されているのは、全135点の内、タイトル、扉絵を含む33点である。この連作の内、初版とそれ以降の版とで、詞書の異なっているものが4点ある※2。これら4点の初版は、いずれも当館に所蔵されている。本稿はその内1点を取り上げ、変更の行われた年代をある程度特定し、変更された理由について推測する。
 ここで取り上げる詞書の変更された作品は、≪サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂のクラウディウス神殿遺構※3≫〔初版1750〜1751年※4〕である。この作品に添えられた詞書がどのように変更されたかを見てみると※5
・初版「帝政期に建てられた、何らかの建築物」
・第2版以降「ドミティアヌスによって建てられた、コロッセオ用の、猛獣格納所」
となる。遺構の名称、目的が、明示されるようになるのである。
 『ローマの景観』初期作品の制作年代を特定した1983 ROBISONによれば、詞書部分にある版元の表示の仕方で、制作年代をある程度限定出来る。曰く、版元が"Bouchard"または"Bouchard e Gravier"となっているものは、1757年〜1761年にかけての作品だと思われるのである※6。これによるなら、本作品の第2版には"Bouchard e Gravier"の版元名があることから※7、1757年〜1761年にかけての作品だと考えることが出来るであろう。
 このように年代を限定してみると、詞書の変更を含む改版は、1757年以降に行われていることが分かる。そしてこの前年、1756年にピラネージは、彼の古代遺跡研究の最初の集大成である『ローマの古代遺跡』("Le Antichita` Romane")を刊行しているのである。ピラネージによる詞書の変更は、この大冊準備段階での調査に基づいており、≪クラウディウス神殿≫を図版として同書に転用することを検討した可能性が非常に高いと、私には思われる。
 この遺構をピラネージは、生涯で8点描いており※8、その内、6点までが、『ローマの古代遺跡』で取り上げられている。この中でピラネージは同建築をクラウディウス神殿遺構だとは考えず、ドミティアヌス帝によって建てられた、コロッセオ用の猛獣格納所だとしている。そして遺構は、全体としてのネロ帝のニュンファエウム(泉水堂)を含む建築複合体の一部だとする。
 この自説を図解する図版の詞書部分では、画面と詞書とを対応させるための番号にアルファベットを用いている※9。同所を描いた『ローマの景観』第2版を見てみると、やはりアルファベットを用いている。そして『ローマの景観』では画面との対応用番号には、ほとんどの場合アラビア数字が用いられているのである※10
 また、『ローマの景観』の≪クラウディウス神殿≫が、遺構を内側から描いた景観図になっている点も注意すべきであろう。『ローマの古代遺跡』に見られる図版は、立面図や断面図、平面図、そして遺構の外観などであり、この≪クラウディウス神殿≫は視覚を補完する役目を果たすことになるのである。
 『ローマの古代遺跡』は、1750年頃に刊行した作品が核となっており※11、既存の図版の転用は、ピラネージの視野に入れられていたであろう。では、何故、本作品の転用はなされなかったのか、そして他3点の景観図詞書はどう変化したかを検討する前に、紙幅は尽きた。また、別の紙面で論じたい。
(当館学芸員)


≪サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂のクラウディウス神殿遺構≫
初版 静岡県立美術館蔵


※1 2004年に当館で行われた「ローマ散策展 PartU」の展覧会カタログp. 91では、1748年としてしまったが、この場を借りて訂正させていただきたい。1986 ROBISON, Andrew. Piranesi : Early Architectural Fantasies : a Catalogue Raisonn of the Etchings, Washington National Gallery of Art / Chicago, University of Chicago Press, p. 11, p. 54 n. 16参照。
※2 ≪サンタ・コスタンツァ霊廟≫(W.-E. 158)、本稿で取り上げる≪サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂のクラウディウス神殿遺構≫(W.-E. 160)、≪コンスタンティヌスのバシリカ≫(W.-E. 161)、≪ウェヌスとローマの神殿≫(W.-E. 149)の4点。(W.-E.**)としてあるのは、1994 WILTON-ELY, John. Giovanni Battista Piranesi : The Complete Etchings, San Francisco, CA, Alan Wofsky Fine Artsによる番号である。
※3 当館所蔵番号P-179-1082(23)、W.-E. 160。この題名は、『静岡県立美術館収蔵品総目録』(1996年)に挙げられた名称である。描かれた古代の遺構の本来の名称、目的等には不分明なものもあるが、当館での名称は、今日考えられている名称を充てている。以下、≪クラウディウス神殿≫と表記。
※4 1983 ROBISON, Andrew. "Dating Piranesi's Early <<Vedute di Roma>>, " in Piranesi tra Venezia e l'Europa, 1983, Firenze, Leo S. Olschki. (初出はヴェネツィアで1978年に行われたピラネージについてのシンポジウム)による。
※5 以下、「」に入れたのはピラネージによる詞書の主旨を筆者が抜粋したもの。当館所蔵分の『ローマの景観』各図の詞書原文、試訳は、2001年拙稿、「ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ作『ローマの景観』」『静岡県立美術館紀要』第16号、2001年3月、pp. 11−47を参照。第2版以降の詞書部分のデータは1999 HO..PER, Corinna. / STOSCHEK, Jeannette./HEINLEIN, Stefan. Giovanni Battista Piranesi : die poetishce Wahrheit Radierungen, Ostfildern-Ruit, Hatje, p. 384, n. 14.27を参照。
※6 1983 ROBISON前掲書、p. 30, n. 24参照。
※7 第2版の版元名については、1922 HIND, Arthur M. Giovanni Battista Piranesi A Critical Study, London, The Holland Press, p.51,n.43を参照。第3版の版元名は、前出註4、1999 HO..PERに正確なデータがある。
※8 W.-E. 55, 160, 324, 355, 524 - 527。1994 WILTON-ELY、vol. 2, p. 1239を参照。
※9 例外はW.-E. 355。これは、図中の事柄が27点あり、アルファベットでは足りないためだとも考えられる。
※10 やはりアルファベットを対応用番号に用いた『ローマの景観』作品は、カステル・サンタンジェロを描いたW.-E. 170。この場合、題名にある“Veduta”という文字も、詞書中央に大きく掲げるのではなく、詞書左端から、説明文の先頭に示してあるのみである。ROBISONは『ローマの古代遺跡』と共通するこれらの点、そして制作年代から、W.-E. 170が本来『ローマの古代遺跡』用に制作されたものだとしている。1983 ROBISON前掲書、p.26参照。そして≪クラウディウス神殿≫第2版でも、"Veduta"という表示は初版よりずっと小さく示されることになる。同様の題名表示方法の変更は、詞書が変更された他の3点の『ローマの景観』でも見ることが出来る。
※11 "Camere sepolcrali degli Antichi Romani le quail esistono dentro e fuori di Roma" のこと。 1994 WILTON-ELY
前掲書、p. 327を参照。


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