芸術家の生没年は、時たま美術史の研究対象となる。当館に油彩画と版画が所蔵されるフランス出身の画家、クロード・ロラン(本名クロード・ジュレ)はその一例で、彼の場合、没年は1682年と確定しているが、生年の方は明瞭でない。生年をめぐる議論の発端は、1982年に研究者のミシェル・シルヴェストルが、クロードの故郷で新発見されたジュレ家の家族構成に関する史料を公表したことにあり、以来「クロードは1600年生まれ」という定説に疑義が提出されている。
この事態を知った私は、すぐにクロードの生年に関する欧米の研究者たちの意見を聴取しはじめた。結果として、ロンドンの美術史家、マイケル・キトソン教授が、いち早くこの問題に取り組み、美術雑誌「バーリントン・マガジン」にその論考を発表しようとしていたことが判った。同誌における発表を待てない私は、キトソン教授に食い下がり、未発表の研究の骨子を聴かせてほしい旨を申し出た。教授は私の強い要望に応え、1996年12月12日付で私信を書き送ってくれた。しかし、この後しばらくして、私は大きなショックを受けた。キトソン教授の訃報に接したからだ。彼の未完成の論文は「バーリントン・マガジン」誌に載ることなく、現在にいたっている。
キトソン教授の意見聴取から10年を経たいま、私はここに教授からの手紙を全訳・公表することにした。当館ではクロードの生年を1990年代後半に書き変えているが、それに踏み切る背景に教授との意見交換があったことを明記しておきたい。なお、本稿の末尾に、この問題をめぐる近況を少しだけ書き添えてみた。これによって、周囲の反応の一端をお伝えできれば幸いである。
1996年12月12日 小針由紀隆様 マクミラン社の『美術辞典』(註1)で公表された「クロード・ロランの生年」をめぐる私の論文に関する12月2日付の貴方の書簡とそれに先立つファックス、有難うございます。
私はこの論文を執筆するため1994年に調査を行い、およそ半分を書き終えました。しかし、その後、残念ながら他の仕事、つまり緊急を要する展覧会の仕事に向かわざるをえませんでした。実際のところ、「バーリントン・マガジン」誌で最終的に発表される私の結論は、上記の『美術辞典』で発表されたものと変わりありません。すなわち、(1)クロードの生年として伝統的に受け容れられてきた1600年は、(1682年に)82歳で没したという彼の墓石に刻まれた銘文に由来しているにすぎません。その銘文は後年のクロード個人の思い込みに依拠しており、実際には誤ったものでした。(註2)(2)ロレーヌ地方でミシェル・シルヴェストルによって発見された史料(註3)によれば、クロードはほぼ間違いなく1602年以前に生まれていませんでした。(3)ローマの「住民調査
Stati delle anime」に見い出せるクロードの年齢に関するいくつかの記載は、彼の実際の生年が1604年もしくは1605年であろうことを指し示しています。しかしながら、「住民調査」における芸術家の年齢記載は不正確であることが実に多く、クロードのように質素な環境に育ち教育も不十分であった芸術家の場合は特に問題となるのです。私が行った調査は、「住民調査」に年齢が書き残されていて、生年が洗礼者名簿(もちろんクロードのそれは現存していない)のような記録史料から明らかとなる芸術家をできるだけ多く探し出すことでした。こうした事例調査が示してくれるのは、ニコラ・プッサンのように、しっかり教育を受けた芸術家であれば、いつも年齢が正確に把握できるのですが、そうでない芸術家ではたんなる推測に止まってしまったり、時折(いつもそうではありませんが)誤った回答が返ってくるということなのです。
確固たる証拠にではなく推測的で示唆的な傍証に多くを負っているとはいえ、クロードの生年を1604年もしくは1605年とする理由は、他にもいくつか見い出されます。たとえば、ミシェル・シルヴェストルは、クロードが6人の息子と1人の娘からなる家の三男だったことを明らかにしています。子供たちの生まれた順番はわかっていますし、二男のドミニクは1601年、五男のドニは1612年に生まれています。ジュレ家の子供たちがほぼ一定の年月を置いて生まれていたと仮定すると、クロードは1604/5年、四男のニコラは1608/9年の生まれとなります。1604年もしくは1605年という推定は、クロードの画業の始まりとの関連でも、かなり大きな意味を持っています。私たちは、クロードが1625年の10月から12ヶ月間、ナンシーでドゥリュエという画家の助手を務めていたことを知っています(この点は記録の裏付けがあります)。クロードは20歳か21歳で助手をしていたとみるのが順当であって、それより数年年上であったとは考え難いのです。 要するに、一つの確証が明快な回答を与えてくれるのではなく、いくつかの要因や様々な傍証の積み重ねに依拠しているわけですが、それらはすべて同じ方向を指しているのです。しかしながら、貴方はこうしたデータが最終的にどう扱われるかを確認されたいでしょうから、私は1997年3月末日までに論文を完成させたいと考えております。完成後は貴方にその論文のコピーをお送りするつもりです。幸いなことに、この論考は1997年の下半期に「バーリントン・マガジン」誌で発表されることになりそうです。 この機会に私の方から貴方にお尋ねしたいことがあります。きっとご存知でしょうが、70年ほど前の英国では、クロードが自然から描いたいくつかの素描、たとえば私がマクミラン社の『美術辞典』に図版として掲載した素描は、筆を用いて樹木や葦を描いた中国の素描から影響を受けていた、とよく言われたものです。この点について貴方はどう思われますか?そうした接近は、中国からの影響の下に生じたのではなく、素描という行為の出発点にあった精神における偶然の類似によるものだ、と私自身は考えております。しかし、私は間違っているかもしれません。貴方のご意見を伺うのを楽しみにしております。 お返事が遅れましたことを、いま一度お詫び申し上げます。 マイケル・キトソン 以上がキトソン教授の私信の全訳である。文面から明らかなように、新説を支えているのは、傍証の積み重ねであって、検証済みの事実ではなかった。この点は重要である。もうひとりのクロード研究の権威者、レートリスベルガー氏は、生年変更の動向を慎重に眺め,その根拠に疑問を投げかけている。彼によれば、先にあげたクロード自身による年齢の覚え違いは考え難く、シルヴェストルの公表した史料も他の記録や物証と齟齬をきたしている。レートリスベルガー氏にいわせれば、生年はおそらく1600年であって、1604年頃ではないのだ。決定的な確証が得られない現在、この問題は鮮明な解決をみることなく、新説の表記も「1604/5年?」に止まるように思われる。しかし、クロード研究に携わる者であれば、これら二つの可能性をつねに頭にいれておいた方がよく、一見推理小説のねたのようだが、実際には考えてみるべきことも少なくない。
(当館学芸課長) 図1 現在のクロード・ロランの墓
ローマ、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂 註 1. Michael Kitson,
Claude (le) Lorrain, The Dictionary of Art, 7, Macmillan Publishers Limited, 1996,
pp.389-403. ここでキトソン教授は、生年を1604-5?と表記している。 2. クロードの墓は、ローマのトリニタ・デイ・モンティ聖堂にあったが、18世紀末フランス軍によって傷つけられ、1836年に現在の場所に移された(図1)。バルディヌッチの伝記によれば、当初の墓石には1682年11月23日、82歳で没したと刻まれていた。バルディヌッチは、クロード伝を執筆するに先立ち、ローマで晩年のクロードから直接取材していた。
3. Michel Sylvestre, ‘Claude Gellee entre Chamagne et Rome’, Mel. Ecole Fr. Rome;
Moyen-Age,Temps Mod., ii(1982), pp.929-47. |