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●研究ノート

小林清親 新発見の肉筆画 《川中島合戦図屏風》について  

飯田 真

 小林清親(1847〜1915)は、風景版画の領域で新機軸を打ち出した明治期を代表する版画家(浮世絵師)である。また幕巨であったため、明治初年、一時静岡に身を寄せたことがあり、静岡県立美術館では静岡ゆかりの画家として作品収集にも意を注いできた。平成17年度、新たに清親の新発見作品がコレクションに加わったので、これを機にこの作品について紹介しておきたい。まず、作品データを掲げる。

小林清親《川中島合戦図屏風(裏:龍虎墨竹図)》
制作年:1910(明治43)年 寸法:各166.0×358.8cm
品質形状:絹本金地着色(裏:紙本墨画淡彩)六曲一双屏風
記銘等:右隻右下、左隻左下 「清親」 白文円印『眞生』
     左隻裏右下 「明治四十三庚戌年一月 清親筆」 白文円印『眞生』

 表裏に絵が描かれた豪華な屏風である。裏に年記があることから制作年が判明する。明治43年は、清親63歳の晩年期に当たる。清親晩年の作画活動については不明な点が多い。明治31年(1898)頃から、錦絵版画は衰退期を迎え、版画の仕事がほとんどなくなるからである。日露戦争当時(1904-05)に戦争錦絵が一時リバイバルし、清親も手を染めたが、終結後は全く衰退してしまった。清親は版画の一線を退き、晩年は各地を旅しながら、肉筆画を中心に作画活動をおこなったと考えられる。清親の肉筆画については研究が進んでいるとは言えず、厳密に言及することはできないが、現存する作品には、略筆による軽妙な画風の小品が多く、晩年にはこうした肉筆画を旅先で残したと類推される。
 その中で、《川中島合戦図屏風》は、これまでの認識を覆す貴重な発見となった。まず清親肉筆画で類を見ない大作であること。清親の屏風作品としては、初期に描いた《獅子図》(明治17年<1884>年・二曲一隻・千葉市美術館蔵)が知られるが、それ以上の大作は見られない。さらに、本作は晩年作にもかかわらず、充実した出来をしめす本格的な画作であり、大きさだけでなく質的にもすぐれているからである。

 それでは画面を順に見ていこう。表は金地の上に薄い絹を貼った、いわゆる「裏箔」の画面に着色で、川中島の合戦場面が精緻に描かれている。右隻に武田信玄、左隻に上杉謙信を配した構成である。右隻右上に、紺色の法衣をまとい、「諏訪法性」という長白毛鹿角の兜を被り床机にかけた、同じ身なりの武将が5人描かれている。これは信玄が影武者を置いたという話に由来したもので、この内4人が影武者という設定である。この場合、正面にどっしりと腰掛けた人物が信玄と見ていいだろう。信玄が見やる先には7人の武士が、槍や刀を手に先頭する姿が描かれる。具足の世にそれぞれ指物をつけ、そこには「山田」「川合」「大江鬼造」などの名が見える。
 一方、左隻は中央に上杉謙信を馬上姿であらわす。頭には、三面の忿怒の相をした三宝荒神の兜を被る。この兜は謙信所用として伝えられた有名な兜で、現在、仙台市博物館に所蔵されている。謙信の前方には、大砲を持ちのけぞる人物、尻もちをつく人物が、そして後方には兜を飛ばして転倒するものなど、立ち騷ぐ戦士たちが描かれる。旗指物に武田の家紋「花菱文」が見えることから、武田勢の中に謙信が颯爽と馬に乗って現れた場面と解される。
 この図様が何に基づいているかは、現在のところ明らかでない。しかし清親と歴史画はそれまでも無縁ではなく、明治15年の《日本外史之内》のシリーズをはじめとして、浮世絵版画において歴史画も多く手がけたことから、場面選択などはそのときの経験が生かされたものといえるだろう。

 ともあれ、本作で最も興味深いものはその描法である。伝統の合戦図屏風の常識を打ち破る斬新なものである。人物の面貌には陰影が施され、異様な雰囲気をたたえる。これは明らかに西洋画法の影響である。清親は明治14年に「団団珍聞」に入社し、風刺画(ポンチ絵)に手を染めることになったが、その際参考にしたのは西洋の作品であったろう。その経験をもとに錦絵漫画のジャンルも開拓した。《清親放痴》や《新相三十二相》のシリーズなどを見ると、日本人を描きながら伝統表現にはない新しい面貌表現が見られる。《川中島合戦図》における人物表現は明らかにこの延長上にある。面貌表現だけでなく、のけぞる、転ぶ、ひっくりかえるなどの姿態も、錦絵漫画で培った表現が生かされており、ユーモアにあふれている。漫画に通じる雰囲気をたたえた合戦図となった。さらに細部に目を転じると、その緻密な描写に驚かされる。例えば、謙信の兜や、鎧の模様など精緻な描写を見せており、清親の充実した技量がうかがえる。さらに転がった兜を裏から捉えたのも印象的で、普段絵に描かれることのない部分に注がれた、画家の好奇の目が感じられる。
 裏に水墨で描かれた「流虎墨竹図」も独特である。とくに竹林に光が射す様を、稲妻状に描いた表現には伝統の墨竹図の表現にはない斬新さがある。これは、光を強く意識した清親ならではというより、浮世絵師の資質があらわれたものというべきだろう。

 このように本作は、清親がそれまでに培った画暦の片鱗を随所にうかがわせた遺作で、見るべき作品のなかった清親晩年期の代表作に位置づけられる作品である。伝来は不明で、どのような経緯で本作品が生まれたかはわからない。想像にすぎないが、清親が晩年、信州方面にしばしば旅に出たことと、「川中島合戦」という画題を考え合わせると、本作が信州のある素封家の求めに応じて描かれた可能性も考えられよう。「過去の画家」になってしまっていたと思われる清親が、力をこめて描いたもので、清親晩年の作画活動に見直しが必要となる作品である。
 また、本作は清親の珍しい遺作というにとどまらず、近代絵画の中での位置づけもなされなければならない。近年、近代美術の見直しが盛んである。いわゆる「新派」の影に埋もれてしまった作家や作品の掘り起こしは重要な作業である。本作も清親作品でなければ、美術館には所蔵されない「下手」な作品に分類されるかもしれない。しかし、作画内容は現代人に充分アピールする魅力をたたえており、無視することはできない。本作が制作された明治43年は、日本画では大観や春草が新たな表現をもとめ活躍していた時期である。その中で本作も、近代日本の美意識の一端を伝えた作品として揃えていく必要があるだろう。

(当館主任学芸員)





 





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