これを書いている段階では今年の分は出ていないが、毎年5月の連休頃にある保険会社が「大人になったらなりたいもの」ランキング(10位まで)を公表している。過去のものを見てみると、男の子のスポーツ選手と女の子の「食べ物屋さん」が毎年安定した強さを発揮している。女の子のランキングではそのあとに「保育園・幼稚園の先生」「看護師さん」などが続き、身の回りに実在する人をモデルにしている様子がうかがわれる。一方、男の子のランキングは業界の浮沈を反映している。「野球選手」と「サッカー選手」の毎年のつばぜり合いに、日本科学者によるノーベル賞受賞の翌年には「科学者・博士」が絡んだりする。なかなかおもしろい。
一般的に言って、ある分野が優秀な人材を確保するためには、魅力的なアイドルなり成功者モデルなりが必要だ。それもあまりに通好みなのはだめで、子供たちの心をつかむまばゆい存在でなければならない。頂点が高ければすそ野は広くなる。現代日本においても、(ランキング上位の)野球やサッカーであれば、選手としては一流でなくとも指導者という道を目指すことができるように。こうして考えてみると「なりたいもの」ランキングはなかなかあなどれない指標である。
そこでふと考えた。「なりたいもの」ランキングに「美術作家」が登場することを戦略的に支援するのが美術館の仕事であってもよいのではなかろうかと。ちなみに、美術作家は1989年の調査開始以来、一度もランキング県内に登場したことがない。この職業の認知度は昔から高かったが、なぜか子供達の憧れの的にはならないのだ。
その理由についてひとつ仮説を提示してみる。「われわれの考える美術作家のモデルはほとんど不幸だった」説である。ちょっと考えてみよう。文明を嫌ってタヒチで死んだゴーギャン。精神病に冒されつつ描いたゴッホ。佐伯祐三、村山槐多、関根正二といった「夭折の画家たち」。彼らは確かに偉大ではあるが、はっきり言って「大人になったらああなりたい」と言われるタイプではない。現代においても、美術作家を目指すのはなかなか経済的リスクが大きい。彼らを「芸術へのイケニエ」として祀り上げつつ消費してきたのが近代社会であったが、それが現代に至っても続いているとすれば子供たちの憧れどころの話ではない。
そこで参考になるのが音楽業界である。同じ芸術系ながら「ピアノ・エレクトーンの先生・ピアニスト」はしばしば女の子のトップ10に顔を出しているのだ。これはかなりの数の「あこがれの先生」の存在を示している。そういう指導者に学んだ子の中から世界的演奏家も時折出現する。演奏家になれなくとも、学校教諭以外の生計の途があること自体業界としての強みがある。
美術館とて、もはや予算が潤沢なわけでもない(というか、積極的に貧乏である)。ドローイング1枚で何万ドルもとれる現代の大家だけを相手にすることもなかろう。生きている作家の育成よりも、なくなった巨匠たちから経済的利益を搾り出すことを経営だと考えている(ととれなくもない)ある種のミュージアムのありかたは犯罪的ですらある。ここはひとつ「美術館作家の明るいライフスタイル」の創出に挑戦してみるというのも美術再生へのひとつの道なのかもしれない。
さて、では「学芸員」はどうだろう。われわれの職業は「大人になったらなりたいもの」なのだろうか。残念ながらここで紙幅が尽きたようだ。これについてはまたの機会に。
(当館学芸員 村上 敬)
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