森鷗外と日本近代美術との関係を総合的に扱う初めての展覧会が、島根県立石見美術館、和歌山県立近代美術館、静岡県立美術館の共同企画で開催されている。多岐にわたる鷗外の活動すべてを取り上げられたわけでは、もちろんない。逆に直接鷗外と関係ないが、あえて展示したものもある。鷗外とその時代を考える上で、どうしても必要だと考えたゆえで、その一つが、鷗外が所属した陸軍医務局と美術との関係品、とくに陸軍軍医学校の伝来品であった。この小論では、その展示意図を記して、展覧会主旨の補記としたい。
まず、鷗外と美術の関係を、箇条書きに整理してみると、次のようになるだろう。 ○ハルトマン美学の翻訳、紹介 −『審美綱領』『審美新説』『審美極致論』 など
○西欧美術の紹介、美術批評、論争 第3回内国勧業博覧会、明治美術会展(1,2,4回)、白馬会展(第1回)など 『洋画手引草』、『柵草紙』、「椋鳥通信」「水のあなたより」ほか
「裸体画論争」「日本絵画の未来論争」「外光派論争」など ○美学、美術史、美術解剖学の教育(東京美術学校、慶應義塾) ○文展審査(美術審査委員会委員)
○帝室博物館総長兼図書頭(展示方法の刷新、正倉院御物拝観資格の緩和など) ○その他、様々な役職(文化面全般を含む) 日本演芸協会文芸委員、伊太利万国博覧会美術品鑑査委員、文部省文芸委員 会委員、国民美術協会理事、教科書用図書調査委員(第一部修身教科書主査)、 史蹟名勝天然記念物保存協会評議員、日本美術協会評議員、古寺社保存会委 員、六国史校訂準備委員長、臨時仮名遣調査委員、遊就館整理委員、臨時国 語調査会会長、帝国美術院院長(初代)
○美術作家たちとの交友 ・原田直次郎記念会 ・漢詩、序文などの執筆(山本芳翠、平福百穂、大下藤次郎、吉田博、中村不 折、和田英作、平福百穂、新海竹太郎など)
・小説の登場人物のモデル 「うたかたの記」←原田直次郎 「青年」←木下 杢太郎 「百物語」←鹿島清兵衛 「身上話」←久米桂一郎 「ながし」← 大下藤次郎 「花子」←ロダン 「天寵」←宮芳平、和田英作
・単行本の装丁、挿絵 ・肖像画、肖像彫刻の依頼、斡旋、撰文 (岡田三郎助、満谷国四郎、黒田清輝、武石弘三郎、藤島武二、和田英作、新 海竹太郎、北村西望など)
○美術関係者、美術史家たちとの交流−大村西崖、岩村透、岡倉天心、瀧精一、 九鬼隆一、秋山光夫、正木直彦、松田霞城、中井宗太郎、團琢磨、高橋掃庵 など
○作品の所蔵−原田直次郎、川村清雄、宮芳平、武石弘三郎、岡田三郎助、新 海竹太郎、鹿子木孟郎、長原孝太郎、竹内栖鳳、三宅克己など ○鷗外の肖像、戯画(描かれた鷗外)−原田直次郎、小杉未醒、鹿子木孟郎、 中村不折、和田英作、浅井忠、高村光太郎、武石弘三郎、平福百穂、森田恒 友、日名子実三、高田博厚、菊池一雄、郵便切手など このような多彩な活躍ぶりを、つねに引用されるように「テエベス百門の大都」(大下杢太郎)と喩えて、鷗外の博識や深遠として理解するのは、巨像・鷗外の顕彰のために有効な考え方であろう。だが、上の列記を眺めて再認識するのは、では結局のところ、鷗外が何をやったのかを要約するのは難しいということである。発想を転換して、鷗外が何かを行ったのではなく、何かを行わせたと考えるほうが理解しやすいかもしれない。小説家として主体的に活動をした文学とは異なり、鷗外の美術との付き合いは、日本近代美術の土台を整備し、美術家たちをプロモーションした、プロデューサー的な役割であったと考えるほうがわかりやすいだろう。
プロデュース業に必要なのは、金と人脈である。そのバックボーンとして看過できないのは、鷗外が陸軍の軍人であったということではないだろうか。軍関係の人脈は鷗外に多くの出会いや交流をもたらした。美術解剖学の教鞭を執ったのは、軍医としてのキャリアが前提としてあっただろうし、肖像画や肖像彫刻の作家たちへの斡旋は、なかば公務であった。文展審査員や国民美術協会理事などの役職は、鷗外が陸軍の高官であったことと無縁ではないだろうし、遊就館整理委員は言うまでもない。鷗外の存在、すなわち軍の存在感は、美術界にとって有効なことだったのではないだろうか。鷗外が軍服姿で文展会場やその審査に現れた表象的な意味は考察に値するだろう。また、このことは軍の側にとっても有益なことであったと思われる。
今日ではなかなか想像しにくいことであるが、軍は文化や社会全体にとって、広範囲にかつ深く結びついていた。軍は日常に入り込んでいた、というよりも軍はごく日常的なものであった。それゆえに、軍が社会との関係を取り結ぶときに、鷗外のような博識は必要であったし、その活動は、自ずと多様化せねばならなかった。鷗外の多様性を、鷗外の個性に帰すると同時に、軍と社会との多様な関係から考察することもできると思われる。
さらに言うなら、軍と美術との多様な関係は、我々の「美術」の通念を多様化させる。それを示すのが、陸軍軍医学校の伝来品であり、とりわけもっとも象徴的なのが、五姓田芳柳の2つの画帖である。《明治九年神風党暴動時刀創図》(描画58枚)と《明治十年西南役外科図》(描画70枚)は、石黒忠悳(後に鷗外の上官として深くかかわる人物)が描かせたものである。大阪陸軍臨時病院長だった石黒の目的は、最後の刀による戦と、最初の鉄砲による近代戦の、それぞれの戦傷(刀傷と銃創)を記録することであった(注1)。戦争は近代日本医学の発展のために、またとない大量の臨床を得られる場であったので、最新の外科術、治療法、医療器具が試みられ、症例と治癒経過が克明に記録された。また患者の氏名が書き込まれていることから、論功行賞の記録であったとも推測されるし、傷痍軍人の社会復帰を考えた術式も見られることから、軍がいかに社会との関係をとりむすぼうと努力していたかをうかがうことすらできる。この2冊の画帖は、医療史、軍事史、社会史のきわめて貴重な資料なのである(注2)。
五姓田芳柳 《明治九年神風党暴動時刀創図》 1876(明治9)年 紙本著色25.8×18.5cm
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五姓田芳柳 《明治十年西南役外科図》 1877(明治10)年 紙本著色32.5×26.7cm
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同内部 | ところで、その描写力の高質を根拠に、これを「美術品」であるというのは、事後的な弁説にすぎない。なぜなら、これらが描かれた明治9、10年は、「美術」とういう用語が誕生した明治6年の、わずか3、4年後のことにすぎないからである。今も昔も、管理分類上、これは美術品ではなく、資料にすぎない。しかしながら、いやそれゆえに、これらの画帖が発散するまがまがしい迫力は、取り澄ました「美術」の概念に振幅を与える。この2冊は、「美術」についての、また美術と軍の関係についての、ひいては鷗外についての、「多様性」を考えさせてくれるものである。今展での出展にこだわったゆえんである。
(当館主任学芸員) (注1)《明治九年神風党暴動時刀創図》の巻末に、石黒忠悳が大正5年7月5日の日付でそえた跋文が見られる。また見開きに「明治九年熊本神風黨 暴動創傷寫生図 大阪陸軍臨時病院長石黒忠悳画工五姓田芳柳ヲシテ画カシム」(記述者不明)がある。《明治十年西南役外科図》にも同じ筆跡で「西南戦役戦傷寫生図 二冊ノ内 大阪陸軍臨時病院長石黒忠悳画工五姓田芳柳ニ命シテ画カシム」(記述者不明)の書き込みがある。
(注2)「彰古館往来」シリーズ19、21 『防衛ホーム』2003年8月15日、10月15日 (追記)五姓田の2冊の画帖は、多くの人たちの必死の保全によって今日に奇跡的に伝わったが、紙の酸化が激しく、中を開くことさえ危ぶまれる状態である。そのため今展では、中を展覧することができなかった。代わりに、たまたま《明治十年西南役外科図》内の6枚が、まったく別の冊子に誤って綴られ保管されてきたため、その6枚のみを今回、修復し展示した。2冊の画帖本体の全面的な修復、保存が望まれる。 |