●研究ノート
ロダンの空間プロデュース -アルマ展における台座を中心に-
南 美幸
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図1 《円柱上の歩く男》 1900年 ブロンズ
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図2 《波》 1898年頃? 石膏 24.3×43.5×20cm |
図3 《修道服を着た
バルザックのトルソ》 1893年頃 石膏 55.5×41.5×27.2cm |
図4 《リンチ将軍》 1886年 石膏 43.7×34×18.2cm
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図5 《抱きあう2人のバッカンテ》 1896年? 石膏 18×12×17.5cm |
今年2月4日から3月25日まで、「ロダン−創造の秘密」展が当館で開催された。その折、柱の高さ270cm、その上の像の高さが84.5cmという、途方もなくのっぽな出品作がエントランスに展示された。《円柱状の歩く男》(ブロンズ、図1)である。このように高い柱の頂に像を設置する展示方法は、1900年のアルマ広場での回顧展以降、彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)が頻繁に用いた方式である。
1900年という世紀の転換期を節目に、ロダンはいくつかの変化を迎えた。第一に、彫刻の制作スタイルの変化である。長い制作歴をもつ作家の場合、作風が変わるのはままあることだが、ロダンの場合、ダイナミックで独創的な彫刻スタイルはほぼ終始一貫していたものの、大型の公的注文作を数多く制作していた初期・中期から、晩年には小型像を主とする制作へと、主題そのものの趣味・嗜好とともに様変わりしていった。第二に、活発な素描制作と自作のプロデュース意識の高揚が見受けられるようになる。彫刻家としての活動を継続しつつ、素描制作に多くの時間を割くとともに、展覧会での自作の展示および展示室プロデュースに大きい関心を寄せるようになっていったのである。この展示/空間プロデューサーとしてのロダンの側面が大いに発揮された最初の機会が、1900年のアルマ展だった。先に挙げた《円柱状の歩く男》の展示方法は、鑑賞者の視線を高く上げる特異な方法であり、言い換えれば、ロダンの台座への高い関心を表している。
台座の機能と役割
遠山公一氏の言葉を借りれば、元々彫刻の台座はその上に載る「彫像を高く掲げ、モニュメントの本質である垂直性を成立させる役割」を担ってきた 註1。その機能は、具体的に次の2つがあった。一つは、「上部に載せる彫像の重量を支え、安定させるとともに、一定の高さを確保し、周囲の環境から孤立させて彫像の可視性を増す物理的機能」、もう一つは、「あるオブジェに社会的政治的権威を付与する象徴的機能」である。西洋美術の一つの典型である「モニュメントという社会的建造物は(これら)両者の機能を合わせたところで成立してきた」。高い台座は「周囲を睥睨することにより権威や記念性を増す」一方で、低い台座は「鑑賞者との心理的身体的交流を増す可能性」があるという相違はあるものの、その存在は近代まで彫刻を物理的・象徴的に成立させる必須要件だったのである。
アルマ展の展示
1900年のパリ万国博覧会に併せて開催された、アルマ広場特設会場でのロダン回顧展は、様々な面でそれまでのロダンの展覧会とは異なっていた。まずブロンズではなく石膏像の出品が多かったこと、次に白い椅子と天幕を配し、照明効果にも配慮することで、全体に白くまぶしい総合空間を作り上げた点である。このような会場を見て、リルケは次のように感想を述べている。「雪の中のように明るい陳列館で、人々はまばゆいばかりの石膏像の間を歩き回ることになる」 註2。
繰り返すが、展示室(壁や椅子)の色、作品のインスタレーション、照明、次に述べる台座など、全てのディスプレイが計算された空間プロデュースには、ロダンの意見が反映されていた。
アルマ展の台座
ロダン晩年の主要な展覧会を概観すると、石膏像を多く出品することは1899年以降に共通するが、この点に加えて、1900年以降は特殊な台座が用いられたことが、第二の特異な共通点である。当時の写真資料を見ると、1899年のベルギーとオランダを巡回する初の個展では、伝統的な台座、すなわち木の彫塑台または平行六面体に設置された小・中の石膏が使われ、2つの作品だけに木あるいはブロンズの装飾的な円柱が用いられている 註3。
しかしアルマ展では、中間サイズの人物像(高さ20cmから60cm)の演出のため、ロダンは以下の3タイプの台座を積極的に用いた 註4。
- 四角柱。模様のない平坦なパターンと、装飾デザインが刻まれたパターンとがある。(図2、3)
- コリントス風の柱頭を持つ、下部にハート模様のある円柱。(図4、5)
- 225cmの高さの滑らかな円柱。柱頭のあるものと、削除されたものとがある。
これらの台座に関連する当時のコメントとしては、わずかに1900年6月5日の『ラ・プレス』誌に寄せたマルタン・ゲイル(アルベール・フラマン)の言葉が挙げられる。「この脆弱なマケットは、止まり木の上の白い鳥と同じように、円柱の上で組み合わさっている」 註5。ゲイルの感想は、恐らくCタイプの台座に関するものであり、またこれらの台座が当時の一般的なタイプとは異なるものだったことを推測させる。
さて、このように、ロダンがアルマ展で用いた台座のタイプはある程度パターン化していた。それらには従来の台座が担っていた象徴的な機能は見当たらない。というのも、台座に作品の主題を特定させるに足る装飾文様等はなく、かつ上に載せられた作品の主題にも統一性がないからである。ロダンがかつて制作依頼を受けた《クロード・ロラン記念像》を例にとると、過度なロココ様式で装飾された台座には2頭の馬に導かれる男性寓意像が刻み込まれ、それは「光の画家の天才を明白に具現する」と作者自身が名言した 註6。しかし、こうした象徴性をアルマ展の台座から読み取ることは困難である。
さらに、特にCタイプの台座の高さに設置された作品の鑑賞は、屋外では可視性を高める効果があるが、室内ではかえって難しく、特殊な視覚効果、すなわち鑑賞者を作品からわざわざ遠ざけるかのような印象を生み出す 註7。これらを考え併せると、ロダンは鑑賞者に作品のよりよい鑑賞方法を提示したり、作品の主題や内容を伝えるやり方を工夫するというよりも、いかに展示室全体を総合的にプロデュースするかに力を傾注したと思われる。そして、そのかなりの部分を担ったのが、当時としては特殊な台座の採用だった。
1900年以降の台座
アルマ展での特殊な台座による展示方法は、「1900年にはほとんど注目されなかった」という 註8。しかしロダンは、続く1902年のプラハと1904年のデュッセルドルフにおける大規模な展覧会でも同様の展示方法を採択した。会場は変わっても、展示方法は変えなかったのである。
また、作品と台座を固定して一体化するパターンも現れた。例えば、1900年のアルマ広場での回顧展で、《歩く男》は高い柱の上に設置されて展示された後、翌年ウィーンとヴェネツィアにも出品された。1902年以前に像は250cm以上の柱上に固定されて《円柱状の歩く男》となり、1902年のプラハと1904年のデュッセルドルフで公開された 註9。
これらの展示例および作品例から、作者の台座への並々ならぬ関心が見て取れる。言い換えれば、台座が作品の本質的要素として組み込まれた証と見て取ることができよう。
以上は、主にアルマ展とそれ以降を概観した、ロダンの展示方法に関する小論である。伝統的な台座を用いた同時代人とも、またその後の、台座は作品をモニュメントや芸術にするための社会的装置であることを暴露し、その「脱神話化」を図ったブランクーシ、デュシャン、マンゾーニとは別の意味で、晩年のロダンは台座の新たな側面を提起したと言えるのではないだろうか 註10。
(みなみ みゆき 当館主任学芸員)
ロダン晩年の主要な展覧会 註11
1899年 |
ブリュッセル、ロッテルダム、アムステルダム、ハーグで「オーギュスト・ロダン作品展」巡回。
初の個展。約77点出品。 |
1900年 |
アルマ広場特設会場でロダンの回顧展開催。約250点展示。 |
1902年 |
「A.ロダン展」をプラハで開催。約100点出品。 |
1904年 |
デュッセルドルフの国際美術展に出品。彫刻約62点。素描約170点。 |
註1 |
遠山公一「台座考 ルネサンスから現代へ、あるいは現代からルネサンスへ」『西洋美術研究』9、2004年、47〜63頁.台座の機能と役割における引用は、全て遠山氏の論文による。 |
註2 |
ライナー・マリア・リルケからクララ・ヴェストホフへの手紙(パリ、1902年9月2日)。Rilke,
R. M., Correspondance, OEuvres 3, Paris, 1976. p.25. ユーグ・エルパン「白いロダン」(フランス国立ロダン美術館監『ロダン事典』)淡交社、2005年、52頁より引用。 |
註3 |
UDRIN, Claudie. et al., Rodin et la Hollande,
Muse´e Rodin, 6 fe´vrier - 31 mars 1996, pp.58-59. |
註4 |
Re´union des Muse´e Nationaux, Muse´e Rodin(re´daction),
Rodin en 1900 : L'exposition de l'Alma, Muse´e du Luxembourg,
12 mars-15 juillet 2001, pp.70-71. なお、AおよびBタイプの台座の高さは130から180cmである。 |
註5 |
GALE, Martin., La Press, 5 juin 1900. BEAUSIRE,
Alain., Quand Rodin exposait, Muse´e Rodin, Paris, 1988, p.199.より引用。 |
註6 |
匠秀夫監『生誕150年 ロダン展』読売新聞社ほか、1990年、118頁. |
註7 |
このような展示は「像を神聖化」したと、エルパン氏は述べている(註2に挙げたエルパン氏文献参照)。ロダンにそのような狙いがあったかどうかについては、今後検討したい。 |
註8 |
Re´union des Muse´e Nationaux, Muse´e Rodin(re´daction),
op.cit., p.150. |
註9 |
ibid. |
註10 |
現代彫刻における台座を批評装置とする試みやその機能への異議申し立てに関しては、遠山氏の前掲論文参照。 |
註11 |
1899年の展覧会については、註3に挙げたカタログ参照。アルマ展については註4のカタログ参照。1902年、04年については、註5のBEAUSIRE参照。 |
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