デッサン、構図ともに作者の安定した力量を感じさせる佳品。穏やかで優雅なトーンを基調としつつ、随所にみられる鮮やかな紫や緑が印象的である。
海岸や渓流の岩場の風景というモチーフは、作者晩年の昭和時代に多く描かれた重厚な風景画に連なるものである。また、小山正太郎の不同舎における自然風景描写の修練によって作者の画技が磨かれたことを思い起こさせる。
《紀州勝浦》
1910(明治43)
59.0×74.8
キャンヴァス、油彩
バガテル公園は、パリの西端に位置するブローニュの森にある公園。本作は、原がパリに移住した直後の1924年頃に制作された数少ない滞仏作の一つで、現存する最初期の作でもある(パリのサロン出品に出品された可能性もある)。巨木の配置や二股の道など構図に特徴があり、原がパリに住む「生活者」の視線で描いた作品といえる
《バガテル公園、パリ》
1924(大正13)頃
73.0×100.0
キャンヴァス、油彩
農婦を題材とした初期の人物画。1941年の年記をもつ貴重な作品で、帰国後に描かれた。ヨーロッパの作風を消化し、色彩を抑えながら、線描を表に出しその上に透明感のある絵具を重ねている。天賦の素描力と冴えのある観察眼によって、果実を手にした少女像を写実的に描いている。縦の筆致が目に付くが、題材は異なるものの、安井曽太郎の滞欧時代のデッサンを思わせるところがある。
《農婦》
1941(昭和16)頃
52.0×45.0
キャンヴァス、油彩
《ムードン風景》 1922(大正11)頃 24.2×33.2 紙、水彩 石川欽一郎は海、川、雨などの風景を好んで描き、水彩技法ならではの湿潤な情景を得意とした。本作もその特徴がよくうかがえる作品である。たっぷりと水を含ませながらも、所々に方形の筆触を残すことによって、画面を引き締め、情感に流れすぎない色彩表現を可能としている。ムードンについては、パリ近郊でありながら長閑な風情と呑気な人情とを気に入ったと、後年、画文集『山紫水明集』(1932年)に記している。 |
《震災後の逓信省》 1923-26(大正12−15)頃 28.6×19.6 紙、水彩 逓信省の焼け跡は、大正15年半ばまで残っていたので、この絵は震災直後ではなく、しばらくたってから描かれたものであろう。震災復興風景画とでも言える作品の一つ。後年の画文集『山紫水明集』(1932年)には、「復興の東京」と題して、日本橋、須田町、永代橋が描かれている。 |
《岡山の海岸》 制作年不詳 24.2×32.8 紙、水彩 「石川欽一郎展」(1992年 静岡県立美術館)では、《厦門港外》(1927年)として出展されたが、その後の調査で、作品裏面に作品名が記入されていることがわかった。「岡山」は台湾にもある地名なので、この絵が日本の風景なのか、台湾の風景なのかは不明。出展ラベルの切れ端が残っているので、生前、何かの展覧会に出展された可能性もある。 |
《台湾次高山》 1925-28(大正14‐昭和3)頃 25.0×33.7 紙、水彩 作品名の記入はないが、山容から次高山を描いたものと考えてよい。台湾第2の高峰・次高山(現・雪山または興隆山)は、石川欽一郎が好んで描いた景勝の地である。「真白に雪を戴く姿からは気高さが迫る。」「これだけ大きな景色は、信州川中島から見た日本アルプスの眺望よりも遙かに優さる。」(『山紫水明集』) |
《台湾風景農村》 制作年不詳 28.8×39.0 紙、水彩 場所は淡水と考えられている。歴史を感じさせる家並みと長閑な農村風景、南国の強い日差しを描く。 |
《台湾風景農村》 制作年不詳 24.5×33.5 紙、水彩 天秤を担ぐ点景人物は、石川欽一郎の台湾風景画によく登場する特徴のひとつであることから、台湾時代のものと推測される。 |
1926-32(昭和1-7)頃 23.9×18.0 紙、水彩 画帖装(13図) 中国福建省、広東省と台湾の各地を活写した、洒脱な画帳。即興的に風景の特徴をとらえる、石川欽一郎の描写力が遺憾なく発揮されている。当時の風景を知る上でも貴重。 「汕頭港口」「汕頭角石」「湘子橋」「韓山展望」「涸渓塔」「汕頭外馬路」「厦門虎頭山」「厦門龍頭山」「厦門虎渓山」「?江馬尾」「福州洪山橋」「次高夕照」「新高淡烟」の13面を収める。 |