緑豊かな丘陵地である日本平の中腹に位置する当館は、それだけに多くの文化財害虫やカビ等の脅威にさらされている。本稿では、それらが文化財におよぼす虫菌害への対策の過去、現状、そして今後の課題等についてご報告する1。特に、これまで有効であったトラップによる害虫モニタリングと環境改善の実施要領をお伝えすることにしたい。
かつて当館の虫菌害対策は、燻蒸が主であった。概ね年に1回、収蔵庫内に作品を入れ、ここに殺虫、殺カビが可能な薬剤2を投薬し、虫菌害を防ごうというものである。このやり方の利点は、作品を収蔵庫に入れてしまえば、後は燻蒸業者に任せてしまえるように感じられ、手軽であることや、毎年定期的に虫もカビも死滅しているという安心感を持つことが出来ること等であった。当時使用していた薬剤は作品への影響は少ないとされ3、収蔵庫の大規模燻蒸によって虫菌害対策を行なっていた館は、当時多数あったと思われる。
だが、主成分の一つ臭化メチルがオゾン層破壊物質に指定されたため、使用していた薬剤は2004(平成16)年12月で全廃され、このやり方に頼ることは出来なくなった。
このような流れの中で浮上していたのが、IPM(Integrated Pest Management)という考え方である。総合的有害生物管理と訳されるこの考え方は、侵入した虫やカビを殺していくのではなく、そもそも侵入が生じないよう日常的に環境を管理し、被害を未然に防いでいこうというものである。単に虫の個体に注意するのではなく、温湿度環境や建物の状況、職員や来館者の挙動等を全体としてコントロールすることを目指すところから、「総合的」という語が充てられている。当館が収蔵庫の大規模燻蒸を最後に実施したのは2004(平成16)年度で、翌年度からほぼ完全にIPMによる体制に移行した4。
これに当たり、最も重視してきているのが、環境のモニタリングである。これはどのような虫や菌が館内外のどこに分布しているのか、温湿度環境や通気の問題点は、また職員や来館者の挙動による不安要因は何か等々の点を、定期的に調査することである。当館が環境モニタリングを開始したのは2000(平成12)年度で、以降毎年3~4回、それぞれ1週間から10日間程度で調査を行なっている。環境の改善は、モニタリングの結果を受け、緊急性と重要性の高いものから実施していくことになる。
モニタリングのメニューの内5、本稿で重点的にお伝えしたいのは、トラップによる虫の分布把握と、それに基づく環境改善である6。第1段階として、美術館全体にトラップを配置し、虫の有無を確認する。ゴキブリやシバンムシ、イガ、キクイムシ等、有害な虫によく注意する。虫が多く捕捉される場所を確認したら7、第2段階として、侵入経路と疑われる個所や、原因の特定に移る。
多数確認されたのが歩行性の昆虫の場合、当該個所に至るまでのルートを探す。屋外につながる直近の扉や隙間まで、物陰や部屋の隅、壁際等にトラップを設置する。怪しいと思われるルートが複数ある場合は、全てにトラップを設置するのが望ましい。これらのトラップの内、最も虫が多く捕捉された個所が、侵入経路になっている可能性が高い。多数確認されたのが飛翔性の昆虫の場合、当該個所の誘引要因を探す。非常誘導灯のように、夜間にも点灯している照明が屋外から見える場合、誘引要因になっている場合がある。非常に小さな飛翔性昆虫の場合、館内の空気の流れに乗って、吹き溜りで大量に捕捉されていることもある。
モニタリングの結果、虫の種類や侵入経路が特定出来たら、侵入経路の封鎖と、誘引要因の排除を行なう。歩行性の虫が屋外から侵入しているなら、扉の隙間や建物のひび等、何らかの穴があるはずである。扉や窓に隙間がある場合には、スポンジやブラシに両面テープを付けたような、隙間テープでふさぐとよい。市販の簡便な製品がホームセンター等で色々あるので、人の出入りや見栄えに配慮しつつ、効果の上がるよう設置する。建物のひびや隙間の場合、小さな隙間であれば市販のパテやコーキング材を充填すればよい8。これらはいずれも数百円から数千円で可能であり、わざわざ大きな予算を取らなくとも着手は出来る。
誘引要因は、先に述べた光の他に、虫が歩行性であるか飛翔性であるかを問わず、食品やその匂い、カビ、虫やネズミ等小動物の死骸等が考えられる。これらの有無を、よく探す。掃除だけで対応出来れば簡単であるが、カビが原因である場合、温湿度管理や通気の改善が必要になる。結露や空気溜まりが生じないよう、建物を管理する係りと連携し、運転状況や当該個所の物品配置等を改善していく。
侵入経路を封鎖し、誘引要因を排除したら、次のモニタリングで結果を待つ。当該個所で虫が捕捉されなくなれば、環境改善成功である。もし捕捉される虫の数が減らない場合は、侵入経路や誘引要因を他に探し、改善を試みる。害虫の侵入阻止は、大まかに言ってこのサイクルの繰り返しである9。
今後の課題等
近年の気候変化に伴ない、かつては見られなかった種類の害虫が見られるようになりそうである。東南アジアやオーストラリア原産のセアカゴケグモのように、すでに国内で世代交代を繰り返しているものや、南米原産のヒアリのように国内への侵入が懸念されているものもいる10。これらは人体への健康被害をもたらすものだが、文化財害虫にも新手が出てくることは、十分に予想される。気候変化は温湿度管理にも困難をもたらす。節電が必要な昨今であれば、なおさらである。
今後、IPMによる虫菌害対策は、必要でありながら困難さを増すことであろう。既にIPMを導入した館園の情報が積極的に公開・共有されていくことが、作品の貸借が重要になる今後の美術館・博物館運営では、一層望まれるところである。
(にったたけふみ 当館上席学芸員)