アマリリス Amaryllis

2009年度 冬 No.96

研究ノート
「サイトスペシフィック」から「コミュニティー」へ
川谷承子

香川県にある直島のベネッセアートサイトでは、制作を依頼されたアーティストが、場所の固有性や歴史に照らし合わせながら、鑑賞者の視点も考慮し制作した、いわゆる「サイト・スペシフィック」な作品が、アートサイトや島のあちらこちらで鑑賞できる。沈んでいく夕日も目の前に広がる瀬戸内海国立公園の景色も、すべてが美術作品を味わうための贅沢な舞台装置のようにそこにある。鑑賞者は、作品がそこに在る意味や、アーティストの発想やこだわりを探りながら観る喜びを感じ、作品と交感する瞬間、自らも作品の一部となる。
このような場所が生まれている時代にあって、一方で、大半を他から借りてきた作品によって構成された企画展を繰り返して活動を続けている美術館は、今後どのようにして自らのアイデンティティーを保っていけばよいのだろうか。
従来、そのような美術館の同一性を位置づける要素としては、設置者の思い、作品の収集とその安全な保存の継続、普及や展覧会も含めた催しの実績、収蔵品の調査、研究の蓄積などが考えられてきた。今後、美術館が今その場所にある意味を確認しながら、自分らしさを確立していくために向かうべき姿とはどのようなものであろうか。
そのひとつの方向性として考えられるのが、美術館が美術館の外にある現実と関わりを持っていくことである。そのためには、美術館が人々にとって近づきやすいものであるべきであり、美術館は常に開かれたものでなければならない。
その際に、キーワードとなるのが、「コミュニティー(共同体)」である。この言葉が、昨今、現在アートの文脈で頻繁に語られる対象となっている。そもそも「コミュニティー」とは何なのであろうか。
これらの議論の中でたびたび理論的支柱として取り上げられる、現代思想における「コミュニティー(共同体)」の考え方として、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体—哲学を問い直す分有の思考』(著:ジャン=リュック・ナンシー 訳:西谷修、安原伸一郎 以文社 2001年)があげられる。ナンシーは、コミュニティー(共同体)を次のように解釈する。

いかなる意味でも全体を構成するものではなく相互の分割そのものによって関係づけられ、内在に還ることなく(外)に向かって開かれる。〈中略〉そしてこの共同体は、何がしかの目的に従う組織となりうる可能性を失って、無為の中で接しあう存在者たちのコミュニケーションによってのみ存在する共同体である。

アメリカの研究者、ミウォン・クォンは著書『ワン・プレイス・アフター・アナザー』(MIT Press, 2002)の中で、アートがコミュニティーとどのように関わるか、そのかかわり方こそが大事であると述べ、ひとつの展覧会をケーススタディーしながら、アートにおける次の4つのコミュニティーの性質を抽出している。

  1. 地域を拠点に協同することによって現れるものとしてのコミュニティー
  2. 特定の人々と彼らの経験を囲い込んだ架空の単位としてのコミュニティー
  3.  
  4. 場所に根ざしたコミュニティー
  5. 創出されたコミュニティー(一時的に)

その上で、クォンは、一貫した統一性を持つ組織としてではなく、束の間の帰属が想像されるコミュニティーを不断に創造すること。ジャン=リュック・ナンシーのいう「無為の共同体」を創出するような、集団的実践としてのアートを模索している。
一方、別の研究者、グラント・ケスラーは、『カンバセーション・ピーシーズ』(University of California Press,2004)の中で美術とコミュニティーとのかかわりについてつぎのような考えを述べている。

コミュニティーという考えは、最近の批判理論において、大衆的な政治論争と同等に重要な研究ポイントになってきている。コミュニティーを再定義する試みは、個人とより大きな集合体(国家、宗教、民族など)の間にある複雑な同一性の問題を巻き込む。コミュニティーはポジティブな面とネガティブな面を含んでいる。集合的な同一性は防衛面での孤立や他者の恐怖を取り除いてくれたり、敬意や、生活や労働における共通経験からなる分かち合いの意識を持つ。その一方で、抽象的で法則化された原理(「国家」、「国民、民族」)を通じてしばしば集合的な同一性が出来上がる。そしてそれは、共通の経験を祝うだけでなく、明確な違いを抑圧するのだ。こうした議論はモダニストのアートにより広い政治的な関与を明らかにする。(中略)ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』はコミュニティーベースの作品について書かれた近年の批評で広く参照されている。(筆者訳)

ケスラーが述べるように、コミュニティーの問題は、ポジティブな面とネガティブな面をはらんでいる。コミュニティーは、同一と差異を生み出す性質を基盤にして生まれ、強い磁場となることがある。こういったコミュニティーにおいては、ナンシーが言うような、内在への帰還ではなく外に向かって開かれた活動に向けて、コミュニケーションの手段として、アートという手法が有効である。美術館という場所は、人の多様なあり方や他者との関係性を見せる場所としての機能を今後は果たしていくことが求められるであろう。
ただし、たとえば多くの移民を抱え、性の問題に対しても解放的に見えるアメリカなどでは、他との同一性や差異が表面化しやすく、スザンヌ・レイシーの『マッピング・テラン〜ニュー・ジャンル・パブリックアート』(BayPress,1995)で紹介されるような特定のコミュニティーをベースにしたアートが数多く生まれており、こうした明らかな他との同一性と差異が、現在アートの重要なモチベーションのひとつとなっている。一方で、日本は、アメリカとは違って、文化的な気風から他との違いが表面化しにくく、主要なテーマにはなっているとは言いがたい。そのため美術館ではこうした多様性を示す場所としての機能を果たすだけでなく、日本型のコミュニティーを基盤にした活動を模索していく必要がある。その場合、先に挙げた、クォンの提示するコミュニティーの考え方が参考になる。美術館という場所に根ざした活動を行う集団や、美術館を拠点に協同することによって現れる集団、展覧会やアーティストの活動を通じて一時的に作り上げられた集団を巻き込みながら、そうした集まりが常にアクティブに活動する磁場となっていくことが求められるのであろう。
静岡県立美術館では、数年前から美術館を拠点に活動するボランティアグループ、草薙ツアーの自主的活動がこれまでとは違う新たな美術館と市民との関係性を模索しているほか、2008年に開催した現代美術の展覧会「風景ルルル〜わたしのソトガワとのかかわり方」では、展覧会を媒介にしたゆるやかなコミュニティーの形成をサブテーマに掲げ、美術館と地域の人々との新たな関係性の構築に取り組むべき一歩を踏み出したばかりである。
作品を収集、保存し公開すること、日常の生活では見ることのできない質の高い美術作品を見せる場所を提供するといった従来の基盤となる活動に加えて、こうしたコミュニティーとの関係がこれからの美術館活動の鍵となってくると考える。
(かわたにしょうこ 当館学芸員)

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