アマリリス Amaryllis

2010年 夏 No.98

研究ノート
「不気味の谷」をめぐって
村上 敬

1.はじめに

 9月18日から11月7日まで、当館では「ロボットと美術」という一風変わった展覧会を開催する。ロボットだけの展覧会なら、愛・地球博このかた盛んになっているようで、昨年あたりには静岡や浜松の科学館でも開催されていた。筆者も覗きに行ってみたが、小さな子供を含む家族連れが多く、大変賑わっている。ご同慶の至りである。それはともかく、科学館ならぬ美術館でロボットの展覧会を行う以上、美術館ならではの独自性を追求せねばなるまい。「美術」はまだしもなぜ「ロボット」なのか。
 結論から言えば、つぎのようなことになる。美術は常に人間を表現することをその重要な柱のひとつとしてきた(だから当館にはロダン館がある)。ロボットの表象(みかけの姿や描かれたイメージ)も、こと人がたロボットについて言えば一種の人体表現であり、おのずから同時代の美術や視覚文化との関わりを持っている。それらを並べて俯瞰してみることで、何か見えてくるのではないだろうか、と。

2.ロボットと人間との境界

 さて、ここまでロボットと人間という言葉をあまり意識せずに使ってきたが、ロボットと人間の境界は意外にあいまいなものである。もちろん筆者はここでいたずらに読者の不安を煽るようなことを述べるつもりはない。少なくとも2010年の世界においてこの文章を読まれているみなさんは人間である(2050年になったらわかりませんね!)。……けれど、あなたの隣にいるその方はどうだろうか?ひょっとしたら先週あたりどこかでロボットと入れ替わってしまっているかもしれない。むろんこんなのはばかげた考えであるが、完全に否定し去ることもまたできない。
 デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った(らしい)。思索の主体である個人としての自分は、とりあえずそれ以上分析して考えることのできないインディヴィジュアルな存在である。けれども、それ以外のすべての存在はあらゆる可能性に開かれている。そういう人間世界のありようを示す興味深い話を「ロボットと美術」展の調査の折に耳にした。「不気味の谷」という。ここで紹介してみたい。

3.「不気味の谷」とは?

「不気味の谷」のグラフの作品画像
「不気味の谷」のグラフ
「不気味の谷」とは、ロボット学者森政弘が1970年に提唱した理論である(注1)。その内容は、ロボットの外観や動作が人間に近づけば近づくほど見る者の好意的反応をよび起こすが、ある点を越えると逆に不気味さを感じさせるようになり、その落ち込みの底を過ぎれば再び好感度がアップしていくというものだ。「ロボットの外観がどれだけ人間に似ているか」と「それを見る者の好感度」の関係は、図のようなグラフで表現される。そして、このグラフの右端近くに、好感度ががっくりと落ち込む谷間がある。ここは、中途半端に人間に似ているものが、それゆえにかえって不気味な印象を与えるという状況を示している。この谷こそが「不気味の谷」である。
 具体的に考えてみよう。一本腕できびきびと働く工業用ロボットは、頼もしいけれど好意を抱く対象というようなものではない。犬がたロボットはまあまあかわいらしく遊び相手にはなる。やや中腰で申し訳なさそうに歩くホンダの人がたロボット「ASIMO」などになるとかなり好感度が高く、人気者といって差し支えない。ここまではいい。
 だが、いくら人体に似ているとはいっても、「握手しようと差し出された相手の手をふと見てみたら精巧に作られた自動義手だった」などという場合——大変申し訳ないとは思うけれど——いささかヒヤッとするのではないか。現代の感覚からはちょっと問題ありと思わないでもないが、これがまあ「不気味の谷」である。
 それをさらに越え、熟練の演者によって操られる文楽人形くらいになると、その活き活きした躍動感や動きのきめ細かさに感情移入してしまうだろう。

4.「不気味の谷」というアイディアの問題点

 さて、この「不気味の谷」の話は経験的には非常によくわかるのだが、論理的な矛盾も指摘されている。ロボットと人間をグラフの両端に置く「不気味の谷」理論について瀬名秀明はこう言っている。
 「ロボットと人間というのは、自分と自分じゃないもの、の連鎖的パラドックスになっちゃっている。自分が、あるところで質的転換をしてロボットになっているんじゃないか、となると、非常に気持ち悪くなる。これが「不気味の谷」の正体かも、と考えています」(注2)。
 いささか抽象的だろうか。では、ロボットと人間との関係をコップと皿とのそれに置き換えたたとえ話を聞いてみよう(ちなみに、引用で言われている「モーフィング」とは、二つの異なる物体を連続的に変化させる映像技術である。テレビ番組やCMなどで読者も一度は目にしたことがあるだろう)。 「ふだんぼくらはコップはコップ、皿は皿と認識できる。だけど、モーフィングだとどこからがコップでどこからが皿かはわからない。連続しているんだけど、どこかで質的な転換は必ずある。でもどの地点で質的な転換が起きたとは名指せない。これが連鎖的パラドックスで、実はロボットと人間も、そのパラドックスに入っちゃっているんじゃないか」(注3)。
 「不気味の谷」というのは、ロボットが迫真的になって人間と区別がつかなくなる不気味さについて述べた話である。これに瀬名は「でも、皿とコップの区別がつかなくても不気味ではないですよね」という問いをぶつける。その結果瀬名は、「不気味の谷」という話題の勘所は、似てる似てないの話ではなく、ロボットと自分たちをモーフィングしていくこと、自分たちの存在の根源がどこかで脅かされるような気がすること、そこにあるのだということに気づいたのである。

5.おわりに

 以上述べてきたことは、ロボットをめぐる思索の積み重ねのほんの一端に過ぎない。だが、そこには確かに「人 間とは何か」という、美術とも通底する問題意識が垣間見られる。あえて当館において「ロボットと美術」展を開催するゆえんである。
(当館上席学芸員)

(1)森政弘「不気味の谷」『Energy』7巻4号、1970年、33-35頁
(2)瀬名秀明『瀬名秀明ロボット学論集』勁草書房、2008年、258頁
(3)上掲書258-259頁

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