ロダン オンラインガイドブック

オーギュスト・ロダン オンラインガイドブック

01 ロダンの制作過程

1880年8月16日、フランス政府は、パリ・コミューンで焼失した会計検査院跡(現在のオルセー美術館の場所)に建設が予定されていた装飾美術館の門扉をロダンに3年以内で制作するよう依頼する。ロダンは、ダンテの長編詩『神曲・地獄篇』などを参考にし、数多くの素描を制作。門の構成を考える上で、参考にしたのが、ギベルティ作≪天国の門≫(1425-52年)で、左右5面ずつの規則的なパネルによって聖書の物語を示すものである。≪第一試作≫(1880年)はこうした構成であるが、素描≪パネルを分割した扉の構想≫(1880年頃)をみると、左右4面ずつの構成に変わっている。その後、規則性はなくなり、悩みや苦しみを抱えて生きる様々な人物を生々しく描くロダン独自の地獄の表現になった。1900年、パリ万博が開催されたときに、アルマ広場にロダン館が設けられ、不充分な形ではあったが、≪地獄の門≫の石膏原型が展示された。しかし≪門≫がロダンの生前に完成されることはなかった。

画像:≪<地獄の門>第三試作≫
≪<地獄の門>第三試作≫

≪地獄の門≫は、世界に7体あり、最初の鋳造とされるのが、松方幸次郎(神戸の川崎造船社長)が依頼したもので、現在上野の国立西洋美術館の庭に設置されている。次いで、フィラデルフィア、パリ・ロダン美術館、チューリッヒ美術館と鋳造され、これら4点はリュディエによる砂型鋳造だが、当館を含む残る3体は、蝋型鋳造によるものである。人物の構成とそこにみられる輪郭の鋭さ、ブロンズの厚み、さらには視覚的に受ける作品の力強さなどに違いがみられる。

ジャン・フロッサールの『年代記』によれば、1347年イギリス王エドワード3世はカレーの町を包囲し、最も高貴な6人の市民は裸足のまま、帽子は被らず、首に縄を巻き、城壁の鍵を持たせ、差し出せば、町の包囲を解いて市民たちの命を助けるとの要求を出してきた。ここで、自らの命を投げ出し、町を救ったのが、彼ら6人の男たちだった。これが、カレー市に伝わる伝説的英雄の物語である。
それからおよそ500年後の1885年、カレー市はロダンに対して、正式に記念碑の発注を依頼する。前年に、ロダンはある人物の訪問を受けた。当時の市長オメール・ドゥワブランである。その数週間後、1884年11月末、ロダンは≪第一試作≫を市に提出。市はこの提案を受入、1885年1月28日、彼は「市の記念碑設立委員会」と正式な契約を交わした。だが、ロダン自身によって公開された≪第二試作≫は、「意気消沈した態度」がカレーの英雄像に相応しくないことなどを理由に修正を求められる。こうした批判をよそに、ロダンは制作を進め、1895年にはカレー市のリシュリュー広場で除幕式が行われた。ところが、その設置方法は、ロダンが意図した「台座を取り払い、地面に市民像をじかに置く」というものとは異なり、市民像は高い台座に置かれ、周囲には柵が設けられる。ロダンが望んでいた場所、つまり旧カレー市庁舎前に彼の意図した方法で設置されたのは、ロダンの死後、1924年のことだった。

画像:≪<カレーの市民>第一試作≫
≪<カレーの市民>第一試作≫
画像:≪カレーの市民≫

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