館長コラム

館長室だより-ただしトキドキ行方不明

14. 俑と殉葬

2022.8

<鎧甲武士俑>

 説明されてもまだよくわからないのは、孔子の俑批判です。それを伝える『孟子』によれば、「孔子は「はじめて俑を作り出した者こそは、天罰で子孫が絶えるだろう」と申しましたが、それはあまりにも人間に似たものを作って、これを副葬品として埋めたからであります」(『孟子』梁恵王章句上、宇野精一訳、講談社学術文庫)。
 孔子は、人間にそっくりの俑を副葬すれば、やがて殉葬をもたらすからいけないと主張したのです。しかし、孔子は「象人=人に象(かたどる)」と語ったのであり、「あまりにも」は訳し過ぎ(宇野先生)、「そっくり」も言い過ぎ(これは私)のような気がします。人の姿に似せたものをつくれば、それだけである力を持ってしまうことは、会場のはじめの展示ケースに並んでいた「玉人」を見てもわかります。男女の区別あり、何らかの祭祀に用いられたようです。
 私は人形(ひとがた)を人に代わるもの=形代(かたしろ)ととらえてきましたから、殉葬の代わりに俑が生まれたとばかり思っていました。孔子(前552/551~前479)は始皇帝よりもおよそ300年前の人、そのころは秦でも殉葬が行われており、戦国時代に入った前384年には殉葬の制度が廃止されました。始皇帝も殉葬をさせず、したがって、兵馬俑は殉葬の代わりを果たしていたことになります。陵墓近くからは文官俑も見つかっています。
 ちなみに、殉葬とは墓主の死に合わせて殺され、埋葬されること、陪葬とは一族や臣下が死んだあとで、墓主のそばに埋葬されることです。

13. 兵馬俑のファッション

2022.8

<跪射武士俑の靴底>

 始皇帝がつくらせた兵馬俑は等身大で体格がよいだけに、立派な服を着ています。もちろん戦士ですから、その上に鎧も身につけています。頭の先から見てゆくと、帽子や髪飾り、首に巻いたマフラーやスカーフと呼びたくなるもの、長い上着、ベルト、ゆったりとしたズボン、そして靴などが、ひとりひとり違っています。加えて、髪型がさまざまです。豊かな長髪を丹念に結った者もいます。
 幸いにも、ひとりの戦士は弩(いしゆみ)を構えて跪いているため、履いている靴の底がよく見えます。滑り止めが丁寧に表現されており(土踏まずの部分はそれなりに粗く)、まるで現代のスニーカーを見るようです。
 私が美術館の館長ではなくショップの店長であったなら、ノースフェイスやナイキと組んで、防寒服やスニーカーを開発し店頭に並べたところですが、本物の兵馬俑に対面するまで、そんなアイデアは微塵も湧いてきませんでした。
 代わりに私がショップで買ったものは、兵馬俑のイラストが入ったTシャツでした。将来、Tシャツを着た兵馬俑が見つかる可能性は皆無。それなら、死んだ私が兵馬俑Tシャツを着て棺に入り、徹底的な防腐処置を施し、地下深く埋葬されたあと、未来の発掘隊が訪れるのを待つしかないですね。

12. 小さな兵馬俑

2022.8

<戦国秦の騎馬俑>

 「兵馬俑と古代中国」展会場で最初に出迎えてくれる兵馬俑は、高さが20cmほどの可愛らしい騎馬像です。戦国時代(前403~前221年)の秦の小さな墓から見つかったそうですから、始皇帝(皇帝としての在位期間は前221~210年)以前のものです。頭にすっぽりとかぶったフードが印象的で、襟や袖口もぶ厚い縁取りがあり、防寒服を着込んでいる感じです。馬に乗るのですから、もちろんズボンを履いており、服は咸陽(秦の都)のアウトドアスポーツショップで買ってきたと言われても、一瞬信じてしまいそうです。
 それから始皇帝自慢の兵馬俑を堪能したあと、会場の後半に至ると、前漢(前202~後8年)の兵馬俑が再び小さくなってしまうことに驚かされます。楯を手にした歩兵俑は50cm、騎馬俑は60cm程度しかありません。等身大の兵馬俑は、秦とともに忽然と姿を消してしまいました。始皇帝を守るために出現した彼らは空前絶後、まったく特異な存在だったのですね。
 なぜ、紀元前210年代(今から2230年前)にだけ、等身大の人間像がつくられたのか。ひとつの理由として、ギリシャ彫刻の影響が遠く及んだことが推定されています。ギリシャとオリエントの文化が融合したいわゆるヘレニズムの時代でした。そのきっかけはアレクサンドロス大王の東方遠征(前330年ごろ)です。東征はインダス川にまで及び、のちにガンダーラ地方にギリシャ彫刻を思わせる仏像が誕生したことはよく知られています。兵馬俑には、中央アジア人(中国から見れば西域人)を思わせる容貌の持ち主もあるようです。ちなみに、アレクサンドロス大王は、秦の始皇帝のちょうど100年前の人でした。

11. 秦始皇帝のAnother place

2022.7

<将軍俑>

 「兵馬俑と古代中国」展を開催中です。始皇帝という言葉にとらわれて、皇帝になる前に「秦王」の在位期間が26年も(13歳から39歳まで)あったことを、私は知りませんでした。それどころか、それまでに秦という国が五百年余りも続いていたなんて考えたこともありませんでした。秦の首長は、はじめ公、ついで王、最後に皇帝を名乗ったのですね。
 美術館の展示室で、兵馬俑とまじまじと向かい合いました。等身大と聞いてはいましたが、ひとまわり大きい感じです。その迫力に圧倒されました。ひとりひとり容貌が異なります。伊豆河津の平安仏、英国リバプール郊外のゴームリーの彫刻Another place、中国西安郊外の兵馬俑と、いずれも「人が作り出した人の姿」という観点から眺めてみたくて、「人形(ひとがた)」をキーワードに、館長美術講座(7月10日開催)で話をしました。
 うまい具合に、ゴームリーが兵馬俑を語った本が近年翻訳されており(『彫刻の歴史 Shaping the World 』東京書籍 )、英国の美術評論家ゲイフォードに向かってこんなことを語っています。「僕が兵馬俑を美しいと思う理由の一端は、テラコッタ製の戦士たちがそれを産んだ土のなかに残されていたことだ。その土地の粘土を型取りしてかたちづくられ、そして焼成された」(石崎尚・林卓行訳)。いかにもゴームリーらしく、彫刻を切り離すのではなく、それが生まれた土地、それがあるべき土地に注目しています。
 総勢8000体とされる兵馬俑は、始皇帝陵から東へおよそ1.5km離れた場所の地中に、東に向かって埋められていました。その先の函谷関を通って現れる未来の敵から始皇帝の墓を、言い換えれば遺体を守る軍団でした。初めから地下にあり、地上の誰かに見せるものではありません。始皇帝もまた死後のための広大な宮殿を地下に建設したからです。まさしくAnother placeです。こちらは今も発掘されていません。
 それを日本の静岡にまで運び、美術館の展示室で眺めている私たちは、いかにも地上の人間ですね。

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<Another place>

 10年ほど前、念願かなって、英国リバプール郊外のクロスビー海岸にアントニー・ゴームリーAntony Gormley の Another placeを見に行った。彫刻家自身の身体から象った銅像ならぬ鉄像がなんと100体、3キロメートルにわたって立っている。地元議会の承認を得て、1997年に永久設置された。これこそあとは野となれ山、ならぬ海となれである。
 満潮時にはもちろん水に浸かる。いろいろなものが張り付く。海藻はからまり、フジツボはすくすく育つ。いや、英国だから「富士壺」はあり得ない。何よりも錆びる一方だ。加えて人間がやって来てはさまざまな世話を焼く。帽子を被せたり、バッグを持たせたり、落書きを(とりわけ股間に)したりと。そんな百変化を紹介した写真集まで出ている。
 海岸を訪れる誰もが、芸術と楽しく戯れているという感じがする。難しい顔でじっと見つめたりしない。やっぱり、それは美術館の展示室という空間が強いるものかもしれないなと思った。とはいえ、100体の鉄像が風景に溶け込んでいるわけではない。むしろ溶け込もうとはせず、人間の手が作り出したものであることをどこまでも主張し、自然と対峙している。
 この鉄像たちはいつ彫刻作品であることをやめるのだろうと、これまた気になって仕方がない。風化することは必ずしも劣化ではない。むしろ力が加わり、強化されているような気さえする。雨曝しの魅力を存分に味わった。


<2020年に上原美術館に展示された平安仏>

 絵馬が絵馬でなくなるのは、それがお堂から外される時だとすれば、仏像はいつ仏像であることをやめるのだろう。という問いを突きつけてくれたのは、伊豆の河津平安の仏像展示館に並ぶ平安仏だった。いや、そこには神像も混じる。その多くは朽ち果て、目鼻を欠いた姿で立っている。それでも仏であることを疑う余地はない。
 少なくとも、答えはふたつある。ひとつは、その前で人が手を合わせなくなった時、あとひとつは仏像展示館から追い出された時。仏像はそれぞれがふたつの異なるステージに立っているわけだが、展示館、すなわち博物館や美術館に置かれた仏像の立場は微妙としかいいようがない。仏像からすれば、拝まれているのか、それとも鑑賞されているのか。
 河津では、失礼な言い方だが、彫刻としての鑑賞に耐えない分、いっそう拝みたくなった。仏たちは木に戻る一歩手前にいるようだし、逆に、木からその姿を現したかのようでもある。仏の出現に立ち合っているかのようだった。
 この地には、那蘭陀寺(ならんだじ)という大きな寺があった。室町時代(15世紀前半)に山崩れが起こり、仏像はお堂もろとも地中に埋もれた。掘り出されたのは江戸時代に入ってからだという。
 なぜこんなところに平安仏があるのかという疑問には、「伊豆の生仏(いきぼとけ)」と私が密かに呼んでいる上原美術館の田島整学芸員が(飲み屋の座敷に座った姿は薬師如来坐像にしか見えなかった)、平安時代の伊豆諸島の火山活動(9世紀後半に活発化)とそれを恐れた朝廷の対応策としての造像の関係を探っている。
 海に突き出した半島だからこそ、都の文化は伝わりやすいということもある。それに伊豆は古くから流刑の地だった。辺境であることは、逆にここまでが都の文化圏だったことを示しているだろう。


<長谷寺本堂に掛かる絵馬>

 絵馬が神仏に捧げられたら「あとは野となれ山となれ」だと書いたあとで、気になって調べたところ、この言い回しは近松門左衛門の『冥途の飛脚』に由来するらしい。「山」ではなく「大和」だった。「あとは野となれ大和路へ」と、飛脚問屋の亀屋忠兵衛は遊女梅川と連れ立って大坂を出奔、大和国新口村の生家を目指したものの追っ手に捕まり、すぐに連れ戻される。
 その新口村(現在の樫原市新口町)から伊勢本街道を少し行った先に長谷寺がある。西国三十三所観音巡礼の八番札所である。最後の三十三番札所谷汲山華厳寺についてもいずれ語りたい。
 門前の温泉宿に泊まり、早朝の勤行に参加できると聞いて足を運んだ。僧侶といっしょに大観音(像高10メートルを超える)に般若心経や観音経を上げると、つぎはくるりと向きを変えて、前方の山々に向かって神仏の名前を唱える。京都の清水寺のように舞台が張り出している。
 私が座った本堂外陣(礼堂)は吹き曝しで、冬はさぞかし寒いだろうと思った。本堂は内陣を含めて、2004年に国宝に指定された。見上げるとたくさんの絵馬が掛かっている。内側にも外側にも。雨曝しを許容する絵馬は、最後にはそこに描かれていたものが何も見えなくなる。それでも絵馬であることはやめない。
 描かれたものを愛でるのではない。絵馬が消えてなおそこにあり続けていることに心を動かされてきた。金刀比羅宮でも伊香保神社でもそうだった。描かれたものを見に行く美術館とは別世界、むしろ百物館の領域である(第3回参照)。美術館館長がそんなことを口にしていいのかな。だから「トキドキ行方不明」になる。


<太宰府天満宮の絵馬堂>

 絵馬堂は、美術館出現以前からすでにあった美術館である。という説明は矛盾だが、美術館を「不特定多数のひとびとに開かれた美術鑑賞の場」だと定義するならば、絵馬堂はそうした性格を間違いなく有していた。奉納されて評判になった絵馬を見に行く場所でもあったからだ。
 ところが、絵馬堂には壁がない。絵馬は雨曝しでも一向に平気なのである。第5回で「美術館は壁である」と書いたばかり、どう折り合いをつけるべきか。
 長年、全国の絵馬堂を訪ね歩いた私の結論は次のとおり。絵馬は神仏に捧げられたものであり、奉納という行為、その瞬間こそが大切なのだから、あとは野となれ山となれ、人間に見せることは二の次である。他方、美術館はどこまでも人間優先、人間同士交流の場である。特別な才能に恵まれた人間の生み出したものを、これまた人間が見る。ゆえに、両者をつなぐ美術作品を劣化させてはいけないのである。さしあたって、神仏はお呼びでない。
 こんなことを考えるきっかけは、讃岐のこんぴらさん(金刀比羅宮)の絵馬堂だった。そこにはほとんど何も見えなくなった絵馬が堂々と掛かっていた。とはいえ、絵馬堂を残している社寺は少ない。その中にあって、屈指の絵馬堂が太宰府天満宮にある。現代美術が奉納され、アートプロジェクトが展開されるなど、今なお現役だからだ。


<大展示室の会場>

 何年か経ってから、この写真の光景を見たら、誰も開催中の展覧会場だとは思わないでしょうね。しかし、写っている人影はれっきとした観覧者です。すでにお疲れのようですが、この壁と床の隙間まで、しっかり「鑑賞」してくださっただろうか。
 なぜそこに隙間があるのか。壁を天井から吊っているから。なぜ吊っているのか。壁を動かすため。なぜ壁を動かすのか。展覧会ごとに展示室の仕切りを変えるため。なぜ変化が必要なのか。異なる展覧会を開催するから。なぜ展覧会を次々と開催するのか。美術館がそう期待されているから。
 こんなふうに考えてみると、この隙間からも、自転車操業のように展覧会を重ねて来た美術館の歴史が見えて来る。
 もちろん、配置が決まれば、壁は床にしっかりと固定されるが、隙間は残る。いったん気にし始めると、気になって仕方がない。隙間がない方が安定し、見ていて安心だ。同じ壁に同じ絵がいつも展示されており、それを見たくて訪れる美術館がうらやましいとも思う。
 壁で思い出すのは、今から40年前のこと。私の就職先だった兵庫県立近代美術館が、当館同様に、県内で移動美術展を開催していたのですが、会場となったある館の展示パネルが自立型で、壁は目の高さにしかなく(つまり下半分は向こう側が見えており)、その壁は、というよりもパネルですね、穴だらけだったのです。その穴にフックを掛けて、そこに絵を掛ける装置でした。昭和40年代の台所の風景が浮かんで来ます。絵ではなく、玉杓子やフライ返しや菜箸が掛かっていましたが。美術館にもそんな歴史があった。


<壁の向こうに展示室がある>

 美術館は壁であると定義した時の「壁」にはふたつの意味がある。ひとつは絵を掛ける壁、もうひとつは外敵から絵を守る壁である。
 では、「外敵」とは何か。文字どおり、それは外からやって来る。外気、雨風、鳥や虫など自然だけが相手ではない。人間も怖い。何といってもまずは泥棒(古来跡を絶たない)、ついで破壊者(かつて東京国立近代美術館に乗り込み梅原龍三郎の絵に狙いを定めて叩き壊した確信犯がいた)、そして「館内の風紀若しくは秩序を乱すおそれのある者」(当館の設置、管理及び使用料に関する条例施行規則第6条による、たとえば泥酔した人)などが想定される「外敵」である。
 そこには、美術品を劣化させてはいけないという大前提がある。なぜそうなのか、これについては改めて考えたい。
 油絵のような重い絵を掛ける壁は、昔の日本の建物にはなかった。幕末にオランダ国王が自らの肖像画を徳川将軍に贈った。等身大であったから、大きくて重い。とりわけ額縁が重い。江戸城に運び込まれたものの、御殿にそれを掛ける壁はなかった。御殿を仕切る壁のほとんどが襖であり、しかも、そこにはすでに絵が描かれていた。結局、櫓に放り込まれ、おそらくは立て掛けたままで(梱包も解かず?)、明治維新を迎えた。
 極限すれば、こうした油絵を見るための場所として、日本にも美術館が生まれた。オランダ国王の肖像画は、明治15年(1882)になって、靖国神社境内に遊就館というミュージアムが開館すると、ようやく壁を得ることができた。美術館にとって、壁は初めから不可欠なものだった。


<まるで一幅の絵>

 半年に及んだ工事休館を経て、美術館が展示を再開しました。といっても、展示室に美術品は並んでいない。名づけて「大展示室展」、そこには何もない展示室があるばかり。それをご覧いただこうだなんて、なんて大胆不敵だと、担当学芸員から企画書を見せられた時に思いました。「えっ、タダじゃないの?入館料も頂戴するの?」。
 それなら魅力的な展示を、いや展示室を見ていただこう、と担当学芸員の押してもびくともしない背中を押し、私も一肌脱ぐつもりだ。来たる5月3日に館長美術講座「美術館は壁である」と題して話します。ちょっとだけ手の内を明かせば、五つの問いを立てようと思っております。

 1、美術館は壁である
 2、いや、美術館は床である
 3、いやいや、美術館とは窓であったのかもしれない
 4、美術館は階段でしょ
 5、美術館はオンラインとなる

 私には、2018年に書いた『動物園巡礼』(東京大学出版会)という本がありますが、そのテーマは「動物園に動物園を見に行こう」。動物を見に行くのではなく、動物がどのように見せられているかを見に行く。それなら、美術館に美術品ではなく美術館を見に行こうという呼びかけがあってもよいはずです。
 ぜひ、この機会に美術館をご覧ください。玄関ホールは竣工時の姿を取り戻しました。柱も窓も階段も、はっとするほど美しい表情を見せてくれます。中庭に向かって切り取られた窓は、竹林を描いたまるで一幅の絵です。


<百物館の看板>

 「館長室だより」をうたうものの、静岡県立美術館の館長室だとはひと言も言っていない、と気づいた人は、よほどのへそ曲がりか、疑い深い人ですね。私はそこまでへそ曲がりでも、疑い深くもないので、もちろんそれは当館の館長室なのですが、同時にまた、「百物館」という架空のミュージアムも兼ねています。どこにもない。私の頭の中にしかない。ところが、表札、いや小さくとも看板だけはある、という不思議なミュージアムです。
 今から162年前、万延元年(1860)に初めて太平洋を渡った遣米使節団は、アメリカ各地でミュージアムに案内されます。さまざまなものが展示された場所を、さて何と呼んだらよいのかほとほと困りました。まずは、自分たちが持っている言葉の中から、ふさわしい呼び名を探すほかない。英和辞書なんて、まだないのですから。その中のひとつに「百物館」がありました。
 私は昔も今も「作物(つくりもの)」にこだわり、建物、食べ物、飲み物、着物、履き物、持ち物、贈り物、忘れ物、乗物、化け物と、暮らしのほとんどが物で括られる物尽しが大好きです。
 そして、作物に作品が、掛物や巻物に絵画が、彫物や置物に彫刻が、焼物や塗物に工芸品が、建物に建築が取って代わる歴史を追いかけて来ました。
 それらを鑑賞する場所としてのミュージアムを美術館と呼んできたのだとすれば、それ以前の世界へと出かける入り口に百物館はふさわしい。そこは、人の暮らしが生み出す無数の「物」から、何を「美術作品」に選んだのかを振り返ってみる場所なのです。2018年から19年に、「木下直之が全ぶ集まった」展と称して、東京のギャラリーエークワッドに3ヶ月だけ出現した「百物館」の記録映像がありますので、どうぞご覧ください。
http://www.a-quad.jp/exhibition/105/movie2.html
 ちなみに、百物館の看板は、私が今から40年前に勤めていた兵庫県立近代美術館の学芸課の長椅子の肘置きを転用した「物」です。


<貝細工を考える人>

 この貝細工は、今から5年前に、私にくっついて館長室にやってきた。その前は東京大学法文2号館にあり、さらにその前は東京大学総合研究博物館にありました。その前のこともよく覚えています。江ノ島弁財天の参道の土産物店の棚にあり、それなりに高額で、それゆえに売れ残り、ホコリをたっぷりかぶっていた。
 雑誌『is』編集長の山内直樹さんがポンと金を出し、写真家土田ヒロミさん撮影の写真が同誌78号(1997年)を飾りました。特集のタイトルは「つくりもの-半芸術はたまた反芸術」。半分ぐらいは芸術の世界につながっているかもしれないという思いから、私が名づけました。
 貝細工は江戸時代後期に一世を風靡した見世物です。貝だけで、草花や樹木、人間や動物など何でも作りました。その世界を振り返る展覧会として、「大見世物-江戸・明治の庶民娯楽」展(たばこと塩の博物館、2003年)、「懐かしうつくし貝細工」展(大田区立郷土博物館、2012年)などが開かれ、最近では、「みうらじゅん-マイ遺品」展(大山崎山荘美術館、2021-22年)で、みうらさんの貝細工コレクションが開陳されました。贈ったら嫌がられること間違いなしの「いやげ物」!
 片や石膏製の「考える人」は、美術館の倉庫で長い間眠っていましたが、昨年に館長室にやって来て、はじめは背を向けていたのですが、最近では、先住者たる貝細工について考え続けているようです。「お前はいったい何者か、どこから来たのか、今は何をしているのか」と。
 貝細工は、「我は作物(造物、つくりもの)である。もしくは細工物である」と名乗ったようですが、「考える人」はそれが理解できずに、きょうもまた「考える人」を続けています。ちなみに、この「考える人」はロダンの手になる芸術作品「考える人」から数えると、いったい何等親なのだろう、血は繋がっているのか、などということは、貝細工は考えないでしょうから、代わりに私が考えています。


<貝細工と考える人>

 理由は簡単、館長室にいる時は扉を開けたままだから、ノックの必要はない。入ったら、いる。部屋の二面はガラス窓だから、逃げ場がないわけではないが、逃げも隠れもいたしません。ただし、トキドキ行方不明にはなります。不意にどこかに行ってしまう。それは現代とは限らない。百年前かもしれないし、二百年前かもしれません。
 「ノックは無用」ではない、と気づいた人は古いですね。それはマリリンモンロー主演の映画のタイトルでした。原題はDon’t Bother to Knock、1952年のアメリカ映画で、日本では2年後の4月に封切られました。私の生まれた3ヶ月後のことです。ほかにも、阿久悠作詞・鈴木邦彦作曲・大信田礼子の歌「ノックは無用」(1971年)や関西テレビの長寿トーク番組「ノックは無用」(1975-97年)などがあります。後者の司会を務めたコメディアン横山ノックは晩節を汚し、文字どおり無用の人となりましたが、ここではこんな話がそもそも無用ですね。
 見切り発車します。どこに向かうかわからない。デスマス調のどちらで書くかもわからない。どのくらい書くかも、いつまで書くかもわからない。画家の野見山暁治さんに『四百字のデッサン』(河出文庫)という切れ味鋭い本があります。タイトルは義弟田中小実昌の発案、「四百字」とは四百字詰めの原稿用紙という意味なのですね。
 「四百字」の感覚がわかる人とわからない人の2種類がいる。私も原稿用紙何枚分と言われないと、文字量が把握できません。坪でなければ土地の広さがわからないようなものです。どうしようもないアナログ人間。
 そもそも、「館長室だより」ならば、SNSで発信すれば話は早いのに、これまたダメ。瞬時はダメ、ああだこうだと考える時間が必要なのです。××しながら、あるいは××しながら、はたまた××しながらという具合に(プライバシーに触れる部分は伏字)。そろそろ原稿用紙2枚に達したようなので、まずはこれまで。

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